A man of few words.

今年もめまぐるしい日々の中でいつの間にか新年を迎え。そしていつの間にかすっかり2017年という数字が当然のような感覚になっていて。

 

意識ってすごいなと。
だって本来なら2016年だろうと2017年だろうと時間軸的な違いはないのではないかな。時間の概念を意識しない人間以外の動物にとってはまず無関係なこと。動物たちは「今」を生きてるだけだから。そしてそれを人は「自然」と呼んでいるのでしょう。

 

いい大人になってしまって、自分という役割を社会の中に見出すような生活をする中でいつの間にか年の移り変わりをハッキリ意識するようになって。今年はどう在りたいのかについて考察して、また実際にそのように生きていこうと心に誓ったりして。全く動物としては不自然な態度ではあるけれど、やはりどうしてもそうしないわけにはいかない。「意識が高い」っていう言い回しがあるくらいで、それは一般的に良い意味で扱われる言葉だ。

 

僕自身ずっと無意識について興味を持っていろんな角度から考えてきたせいか、意識レベルが社会的な意味では低い人間だったように思う。にも関わらず毎年、年が明けるとその年の抱負というか、テーマのようなものを決めたりして。

 

去年2016年の年明けに決めたテーマは文字通り実現されたように思う。それはやっぱり「言葉」というものに一度落とし込んで、それによって意識のどこかに引っかかるようにしたからなのだろか。「言葉」と「実現」は密接な関係にあるとは常々思う。とゆうか「意識」と「言葉」が人にとってすごく大事な関係にあるからなんだろうけれど。

 

つまり「2017年」というのはただの言葉なのに。

猫に向かって「2017年」と何度呼びかけてみてもその1年をどう過ごすかについての返事なんて返ってこない。まあそれは猫はなかなかクレバーだから、本当はわかっているんだけど、喋ると面倒なことになるとふんで何も言わないことに決めているだけなのかもしれないけれど。でもそれは聡明な選択だ。

 

人って面倒な生き物だから、言葉によって意識を形成し、言葉で未来に希望を見出し、言葉に傷ついて言葉で人を傷つける。そして言葉によって行動の規範を意識して言葉によって実現し、その実現を言葉で実感する。言葉で後悔し、言葉で言い訳しながら言葉でルールを作り、言葉で救われて、言葉で愛し合う。とゆうか、愛も未来も傷も意識も全てただの言葉であって、それは人が作った「不自然」なのに。

 

いや、それは語弊があるな。愛も未来も傷も意識も全ての動物にあるし当てはめることができる「自然」のこと。でも動物たちは聡明だからそこに名前をつけたりしないだけだ。愛も未来も傷も意識も本当はイメージも形もない混沌の中に混ざり合って存在してることなんだろう。つまり「名前を与える」ことが言葉の役割。人は全ての物事に名前をつけずにはいられない。名前のついたものは全て意識の領域にカテゴライズされることになる。人は意識(言葉)として世界を捉えているんだなと思い知らされる。

 

だから人にとって「名前」というものがどれほど大事なのかということが想像できる。

名前というのは「言葉力の最たるものだ」とも言える。だからこそ「名前」と「呪い」とはとても似ている。

 

他人の無意識に放った何気ない一言が時間を経ても思い返されて後からじわじわと傷つくようなこと。そのことが気になりだしてずっと意識の片隅にあり続けるようなこと。それは言葉にとらわれているだけだったりするのだけど、もはや自分の意識の一部に組み込まれてしまってる。「自分とはこういう人間だ」と無意識に決めつけてしまってる背景にある言葉。動物たちはこんなことでくよくよ悩んだりしない。つまり、あまりに賢いことは聡明ではないのだ。

 

そんな自分の作り出した意識=言葉に縛られる人間としては、よくよく注意深く言葉を選択していかなくてはいけないのだと思う。かといってあまりにも意識しすぎると柔らかくいられない。生きていくには柔らかさが大事なポイントになってくるはずだ。あまりにも堅いと自分を追い詰めることになる。でもだらしないほど柔らかいと迷惑をかける。やっぱりこれもバランスだろう。

 

A man of few wordsというのは口数の少ない人、寡黙な人ということだけど、これだけの言葉をここに書いてる自分というのはどうしたものでしょう。普段 誰とでもこんなに大量の言葉を共有するわけではないけれど。でもどこかでこうして言葉に置き換えて外に出すということが人には必要なんだろうな。いや、そういった意味ではこのブログは必要なアウトプットということではないのかもと思う。これはどちらかといえば意識的な表現の方に属してる。本当にやむを得ない無意識からの表現というのはもっと別の何かに置き換えられるんだろう。

 

今年の年明けは今までのどの年ともまた違ったカタチで迎えることになった。でもとても幸せだった。「幸せ」と感じることについてもっと思いを巡らせても良いのかもしれない。

 

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    山田 ひろみ (火曜日, 14 3月 2017 02:09)

    ***幸せ***
    ふと 今 感じた幸せ
    「居ること」・・・私がここに居てもよいこと。   そして   私ではない人・物・大事な何かが居ること。
    存在してくれることが、本当にありがたい。
    大事な何かがこの世の中から居なくなってしまう事には、まだ私は動揺してしまうだろう。