"Pain is inevitable"

考えてみたら去年もそうではあったけど、今年も再びいくつかの録音を来年に持ち越す事になりそうだ。録音というのは完全に終わらせるまでずっと落ち着かない。絶対に落ち着かない。長期間ひかない微熱のように、靴の中の小石のようにそれはお腹の奥深くに居座って絶えず信号を発している。

 

それは実にストレスフルな事実なのだけど、それでも個人的に録音を起点とした一連の作業が大好きなんだなとしみじみ考える。生き甲斐を感じると言っても大袈裟ではないと思う。宮崎駿がなんだかんだ言っても作品作りをやめられないように、と書くとなんだか逆に大袈裟な気もしてきたけれど。。

 

録音とライブというのは2つの大きなライフワーク(?)だ。その2つがあるから今 何を練習するべきなのかがわかる。まあ練習はまた別の話かもしれない。ともかく自分の技術が安定してくればくるほど自信が損なわれていくことに気づいて。それはみんながみんな十把一絡げにそうなるという訳ではないのだと思うのだけど。

自信が持てない事は音楽生活における一つの大きなイシューだと感じるようになった。それはライブで例えたらリラックスできてない状態みたいなもの。ではなぜ自信が持てないのだろう?元々持っていなかったのだろか。いや、根拠のない自信はいつもそこにあった気がする。もっと今よりも若い頃。以前はやはりもっと無邪気にただただ音楽が好きでギターが好きで、それで十分だったんだな。好きな事をやるのに自信を失う必要なんてなかったんだろう。とはいえ、20代の頃はいろんなことがうまく噛み合わなくて鬱々とした日々を過ごしていたのだけれど。精神的にも今よりももっとコドモだったし。今でもコドモですけど。

現時点での年齢になってみて、自分よりもずっと大きなステージに立つ先輩たちと接する機会が増えて、それで彼らの多くも仕事が回りだしてその質が上がるほど自信を失っていくと語ってるのを耳にしたりも。なんかそういうものなのかな?と思ったりもした。でも先輩の中でも既にもうどこか腹をくくって自分の才能の枠を自分である程度設定して楽しそうに苦悩してる人もちらほら。それもちょっとわかる。

もしかして「理想」の問題なのかな?とふと思った。他の多くの人々と同じように、僕も常に理想を持つタイプの考え方をする人間だったかもしれない。理想があるから理想に近づくための努力をする。でもその理想の持ち方が僕にとってはある種のギターの「鳴り方」に集約されすぎてるのかもしれない。それは角度を変えて言えば理想の傾向であり、偏りであり、オリジナリティでもある。その3つは同じことだから。

 

それは僕にとっての「信仰」なんだ、と気づく。

「信仰」を原動力にしてここまでやってきたし、その部分で自分の精神的安定が保たれていたりする。

なのだけど、理想とは目の前にぶら下げられたニンジンみたいなもの。

それは届きそうで届かないことに意味を持つ。なぜなら全く届かなさそうな物事に人はなかなか反応を示さないし、届いてしまったらそれは急速に興味の対象外となる可能性が高い。幸いにも楽器の演奏というのは人の一生では足りないくらいに懐が深くて、理想に届いてしまうということはまず起こらない。それは個々人の理想の設定レベルにもよるのだとは思うけど、それ以上に、人の理想というのは人の技術レベルに比例して向上してしまう傾向があるものだから。でもそのこと考えると音楽というのは人が見出した事(発明とは敢えていわない)の中でもっとも優れたものの一つだなと常々思う。何より音は目には見えないものだから。目に見えない物事に一生を捧げられるなんて人間のする事の中のもっとも非効率なことの一つでもあり、それが同時にもっとも豊かなことだったりもして。

 

・・・話が逸れた。。

つまり、自分の才能の枠を自分で「これくらいだろう」と決めてしまってその中で腹をくくってやるというのはひとつの生き方だろうと思う。それもまたカッコいい。むしろ仕事面ではその方が上手くいきそうな気もする。そのことで心が揺れない、というのはある種の強さだから。

 

でもやはり心は揺れてなんぼな気がする。

揺れる心を抱えていれば人は苦しい。幸福も苦悩も同じベクトルでやってくる。だからこそ「痛み」の深さが大事なのかもしれないと思う。人は無意識に痛みを求めているのかしらん?わからない。もしそうだとしたらそれはちょっと悲しい習性な気もする。でも死ぬ事をリアルに考える事は同時に生きる事を真剣に考えることに通じているように、痛みを感じる揺れる心は健全なのだと思う。でも痛みの大きさによっては人は耐えきれなくなったり根負けしてしまったりすることもあるんだろう。痛みもまた届かないニンジンのようにバランスのとれた距離感にないといけないのかも。だってもし僕が今 交通事故にあって下半身がもげて血だらけで死にそうになっているときに「痛みは生きるために大事なのです」なんてセリフが自分の口から出てくるとは思えないもの。

 

ココロがそのようにして自分の置かれたカラダの環境に全面的に依存しているように、カラダもまたそれを取り巻く環境に全面的に依存することに。では環境を整える事はやっぱり大事なんだな。

痛みとか苦しさとか。

それによってすごくゆっくりではあるけれど前に進んでいるのかもしれない。痛みを感じなかったら、それはそれで幸福かもしれないけれど、でもやっぱりね。だって実際のところカラダが実質的に死に至るまで痛みは存在するのだものね。という事は「生きる=痛い」「死ぬ=痛くない(痛みからの解放)」ということでもあって。まあ生きてるあいだじゅうずっと痛いわけではないものだし。自信を喪失することもまたパッケージに含まれているんだろうと思ったり。ココロの揺れの振り幅を自分で支えられるのかどうか。バランスですね。

 

例によってとりとめのない言語的アウトプット。

こんなこと書いてないで録音進めないとだ。。(ー_ー;
年内は残りライブ9本。・・バランスだな。

 

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コメント: 1
  • #1

    山田 ひろみ (月曜日, 13 3月 2017 05:27)

    最近、なんだかシックリしない。
    バランス・環境  自分自身なのか? 環境なのか? 
    なんとなく環境を変えられないでいるってことは、自分の中に多くの原因があるんだと思う。気持ちが上がってくるまでの辛抱だとも思うが・・・そうなのか?ちょっと自信がない。
    気持ちが下がっている?という判断は、なんとなくつけてしまうテレビ!
    集中・持続・注意力に問題がある私には普段は苦手なテレビ! カラダとココロのバランスが悪いと見ている気がする。カラダが私を支えられないのか?ココロが私を支えられないのか?
    この中途半端な時間に目覚めてしまう体調と 今は もう少し付き合うしかないんだろうなぁ~
    ブログとは・・関係のない私の現状になってしまった@~@