「是くふて茶呑むさい」

レッスンを終え帰宅してLage Lundの弾く古典的なようでコンテンポラリーなまるっこい音に耳を傾けながらぼんやり。まる(○)について思いを巡らしつつ。

 

○というのは禅で言うところの○ですね。

一休禅師の言うところの「墨絵に描きし松風の音」と同じような。その○を描いて、「これでも食べてお茶を飲もう」というのです。円相ですね。

 

それを言った人はカエルについても言及しているみたいで。座禅をしてるだけで佛になれるのだったらカエルだって佛になれるよ、ってカエルの絵を描いてる。これだけ読むとなんだかただのひねくれた人なんだろなとも思うのだけど、それが「禅」なのだとしたら?と考えつつ。てゆうか「練習してるだけで良いギタリストになれるよ」というのと同じことですね。そんなわけない。修行は自己満足ではないのだと。それにしてもこの絵のカエルくんの顔がなんだか悪そうで良いですね。仙厓という人の独特なユーモアと表層からは見えないネガティブな厳しさ(と書くと違うって言われそうだけど)が見え隠れしてとても好感が持てる。トムヨークのようにシニカルだ。

 

ここで語られてること。つまり墨絵で描いた松風の音や○と言ったものは「ココロ」についての表現なのだそう。しかも「それ」を食べてお茶でも呑みましょうと仙厓和尚は言う。ユング的に言えば象徴的表現とゆうことになるんだろうな。

 

僕が「是くふうて茶呑むさい」という表現を知ったのは7年程前だろか。もちょっと前かな。思い出せないな。でもそんなことを読みながら日々を送っていた頃は本当に苦しい時期で、でもこれらの言葉が本当に救いで。いや、言葉そのものに救われたわけではないな。そういった感覚に反応したんだなと。顔が固まってそのまんまな日々を送っている中で少しずつそういった感覚的反応に溶かしてもらって。

 

その頃に学んだことはまず「意味」ということの無意味さ。意味って大事ではないってことだったような記憶がある。何で大事ではないのだろか? それは意味があとから来るものだからということだったように思う。後づけのこと。つまり音楽で言えば「理論」と同じような。後づけだから大事ではないのだろか? んー、それはわからない。でも後づけでならいくらでも解釈できる。一番大事なその瞬間には意味なんて意味をなさないのではないのかなと。

 

もちろんこれだけでは語弊がある。

言い方を変えれば「意味」というのは後からだからこそ意味を成すのかなっていうことですね。「その瞬間」をではなく、「その後」をどう生きてるのか?ということ。意味が大事じゃないわけではないけど、意味はその意味に気づいた瞬間にこそ意味を発揮するようなこと。

 
音楽は禅で語れるのだなとは思う。禅も音楽で語れるのかも。
もしそうだとしたらそれは記号的な話であって象徴的な話ではないのかもしれない。日々の日常についてエフェクターで喩えたとしても表現できるように。いや、これは説明が面倒なのでここまでに。互換性のある置き換え表現についてはどっちでも良いのです。どっちでもいいですよね?

大事なポイントは相互的に「置き換え可能」ではない話。

つまり記号的ではないという部分。だから「○」で表現するしかないようなことに至ったようなこと。だって○=ココロではないでしょう。○とココロは記号的に同義ではない。でもそれは象徴的に表現されているからこそ○はココロであり、同時にそれを食べてお茶でも呑もうと言える。つまり○であるココロはメタフィジカル的に饅頭に置き換えられているし、それは常にあらゆる角度で一方通行であるということ。まあそれが「禅」ですね。

 

ココロは「○」で表現されるかもしれないけれど、○は「ココロ」で表現はされない。これは記号的ではない。このことがどれくらい人のココロを救ってくれるのか・・・みたいなことを書きたかったのだけど、んん、うまく見えなくなってきちゃった。。うまく見えない目で文字をタイプしてもうまく表現されないのかも。今夜はここまでにしましょう。