前回最後にblogを書いた時期から約半年が経って2016年も7月に。
約3年前を境に7月が1年の節目と実感するようになり。
思えば最初にblogを書き始めたのが初めて奄美大島に田中一村の原画を観に行った年に現地で書いたのだから(それがいつだったのかもう定かではないけれど)、ちょこちょこと書き始めるようになって10年ほど経つのですね。初めて書いたときは「日記」だったのだけど、書き出しの文章を今でも覚えているのが自分でも不思議。
『日記なんて書くものかと思っていたけれど。』
が一番最初に書いた文章だ。
旅先で感じたことを描写して記憶にとどめておきたいと思ったのでしょうね。他人に読ませるためというよりは、どちらかといえば備忘録的な感覚で書き始めた気がする。でも口調は架空の「あなた」に向かって書かれていたり、不特定多数の「誰か」に向かって書かれていたり。つまりそのほうが話を前に進めやすかったんだろう。
旅先での情景を描写して、起こった様々なハプニングを描写して、一村の作品のひとつひとつを描写して、ふとした時間に感じたサウダージを描写して。文章を書くということイコール描写だった時期。アチラにあるものをできる限り正確にコチラ側に移す作業。自分の思いのたけを伝えるのではなくて、「それ」をできるかぎり在りのままに別の言葉に置き換える作業がその当時、自分で始めてみて思いのほか自分自身を癒すことになった。翻訳作業みたいなことだと自分では感じたのだけど。
でも自分で書き始めてみるまで気づかなかったのだけど、自分は癒しを必要とするほど傷ついているとは考えもしなかった。その時期に何か大きな不幸が自分を襲ったというわけでもなかったし、純粋に楽しく南の島をオリオンビール片手に旅していただけだった。
でも僕だけに限ったことではないけれど、人は生きているだけで傷ついてるし、それは自分との向き合い方ひとつで自然と蝕んでいたりするものなので、それがこうしたある種の置き換え作業によって回復する、ということにたまたま偶然気づいたということなんだと思う。
そういった回復作業みたいなものを自分が必要としてるなんてアタマでは理解していなかったのですね。でも気づいてみるとアートというのは基本的に個人の回復の為にあると言っても過言ではないものだし。それが絵画であれ音楽であれ、もしくは言葉であったとしても。アートは基本的に人間しかやらない最も効率の悪い作業・・・と書くと語弊があるけれど、社会的な実質性でみると効率の悪い作業になるのだけど、個々人のココロのバランス調整という人にとって本質的に大事な部分を扱うことにかけては最も効率の良い作業に属すると思う。睡眠と同じように。
というか、睡眠とアートはセットと考えても良いんじゃないのかな。またいい加減なことを書いてしまった。苦情は受け付けませんが。
「ブログはアートか?」
と聞かれたらそれは違うと思う、と答えるかもしれない。でも岡本太郎的な視点で見ればそれほどはずれた見解ではないと思う。つまり人間しかしない無意識レベルの調整作業という意味合いにおいては。それが他人にも影響を与えたり他人を自分の知らないどこかで救うことがあるのだとしたら、それはアートに近い意味合いを持つかもしれない。もちろんブログで他人を救おうなんてことを思ったことは一度もないですけど。いや、これは乱雑に2つの異なるものを並列に扱ってるだけで、これをもう少し厳密に言うなら言葉選びと組合せと置き換えの中に含まれるアート性について言ってるだけのこと。"Blog = ART"と言ってるのではありません。
ともかくそもそもそんなつもりで書き始めたわけでもない文章なのにいつのまにか自分自身が救われていたり、気づかされたり、他人を真剣に怒らせたり、他人と間接的な交流をはかれたり。言葉を扱うということは考えることだし、イメージすること、置き換えること、さらにはアウトプットすることで、同時にすごく危険も含まれていて。
その危険な部分に意識が及ぶと書けなくなったり。
でもどんな理由なのか(思い当たるフシがいくつもあり過ぎて 笑)自分ではわからないけれど、だんだとブログを習慣的には書かないようになってきたのですね。
これは大きな時間軸のなかでのこと。
「時間」というファクターが大きく影響してる。去年の自分と今現在の自分とは別人なように。人間は変化するという事実を受け入れるのには時間性について考えないといけなくなる。時間を抜きにしたら人は変わらないし癒されないし死なないし。
歳を重ねるなかで自分というのは時間の一部なんだと思えるようになってきて。もっとも無意識の世界では時間というのはクロノロジカルに流れてないので時間軸に依存してるとは感じないのだろうけど。てゆうか、感じたらそれはもはや無意識ではないですけど。
でも興味深いのはその感じる/感じないだったり気づく/気づかないだったり。つまり無意識の世界のものをコチラ側に持って来たり、コチラ側から知らないうちにアチラ側に移行していたり。それを日常的に繰り返してるのが人々の営みなわけで。
全然「時間」についての考察にはなってないですけど、7月になってお花をもらいまして。僕は生き物を扱うのが苦手でせっかくお花を頂いてもどうしていいのかよくわからない。植物というのはとても生々しい生き物ですよね。でもとにかくそれを大事に扱いつつ毎日お水をとりかえたりせっせと茎を切ったり。
毎日それを見るともなく眺めていて漠然とだけどそこに見出したものは「時間」の流れるスピードだったのです。想像してるよりも早い。それは感覚的な問題で時間のスピードが変化するわけではないのですが、僕みたいな植物を扱わない人間が普段 自宅で花をじっと見たりしないことでぼんやりとしか見えていなかったこと。それは形式的には冷蔵庫の中の野菜が劣化していくことと同じようなことではあったとしても、やはり違う意味合いで感じられる。
でもそこで感じた経時変化=劣化はある種の「美」だったりもして。
これは美しくて良いのだ、というのが正直な気持ち。色とりどりの夏の花を見ているのと同時に時間を見てるのだと思った。それをはかないとも感じるしせつないとも感じる。いろんなことを感じるなかで一言で総合的に表現するならそれは美しいなってゆうシンプルな事実。"諸行無常"に「美」を感じられることは悪くない状態なのではないかな。それに1つの節目に時間を感じるというのはある意味まっとう至極なことですね。
あ、洗濯機がそろそろ止まるのでこのへんで。
洗濯機にはいつも時間性を強要されてる気がする。。
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satomi (土曜日, 30 7月 2016 02:28)
こんばんはkeiさん(*。*)
素敵です。お花。 そして「気」ってすごい! 親友の持つ第六感 なのか?
keiさんの内面がご親友を動かし、花束をご親友に選ばせたのか?
私は、たぶん、keiさんのテレパシーだと思う。
何言ってんだろう?という方は、keiさんのtwitterも見てください。
お花。。。大事***私は疲れを身代りに引き受けてくれている。とも思うし、自然と口角を上げてくれるもの。
とも思う。 。。。flower。。。
kana (金曜日, 19 8月 2016 09:57)
Keiさん、こんにちは。成城のお店でお世話になりました。Keiさんのblogを拝見して、芸術家で有り、哲学者でもある方だなと,感じています.。人は何故、時間の流れを過去から未来に直線的に流れているように感じるかというと、時間は元に戻せないから。枯れたお花が元に戻らないように・・・ でもね、過去について考えているのが、今の自分なら、未来について考えているのも又、今の自分。そう考えたら、過去も未来も現在も平行して同時進行で流れているのかもしれませんね。 by kana