目覚ましに起こされずに起床。
部屋の湿度39%、部屋の温度12度。ふむ。
お湯を沸かす。
バナナを剥いて切って冷蔵庫からヨーグルトを。
コーヒーを淹れてメールの返信、それから少しFBの
タイムラインをぼんやり見て。すぐに消す。
考え事に45分くらい費やしてしまった。
時間の経つのが早い。でも集中して考えたおかげで
いろんなことが幾分納得できた。
今の時点では理路整然としてる。説明しようと思えば
きちんと言語化できる。人に伝わるような言葉回しを
選べる。でもしない。
理解を深めることと、本当に言葉にしてしまうことには
大きな隔たりが。でも言葉にしてみないと本当には理解しない
こともあるので躊躇してみたり。
でもいいんだ。今はそれを言葉にしないことが必要と
されてる気がする。言葉はまた別の言葉に置きかえられなくては
いけない。本当の言葉は別の文脈で語られなくてはならない。
童話やお伽噺みたいに。
音の世界はもっと抽象的で曖昧で。それが無意識にも似てるし
夢にも似てて。言葉のない世界とある世界をまるで夜の湖面
のように区切っていて。それでいつも救われてる気がする。
僕は詩を書かないので、置き換えられた言葉というものを
扱う事がほとんどない。もちろん絵本作家や小説家だったら
言葉の置き換えを日常的にしていたかもしれない。僕にとっては
そもそも言葉にすることが置き換え作業になるわけだから
それを他人の目に触れるところに書く時にはさらなる置き換え
をしないとなのだけど、あいにくそのような手段を持っていない。
しかたがないので描写をすることにした。
もう10年以上も前の話。
最初は旅のことを書いた。旅行記というと聞こえはいいけれど。
旅のあいだに自分の身に起こった事、感じたことを他者に
伝わるように描写した。
それから夢のこと。夢のことのほうが描写には適してると思った。
余計な私感を挟まないように注意深くなれるから。
徹底的な描写をすることがそのまま置き換え行為になるのでは
ないかとふと直感的に思った・・・と思う。
実際にすごく本質的な夢を観てその徹底的な描写をしたときに
それをブログで公表したら複数の人間が怒って抗議をしてきたことが
あった。彼らのことを夢に観たわけでも書いたわけでもないのに。
でもそれがある種の説得力を持つということは理解してもらえると思う。
描写ってある意味では情景を伝えること。
僕の目に映っているもの(たとえそれが夢の中での出来事だとしても)
が僕以外の人間の目にも喚起されるように工夫すること。
もちろん100%の再現率なんてありえない。70%も怪しいんじゃないかと
内心疑っている。でもそれはパーセンテージの高さだけの問題では
ないんだね。パーセンテージが高いほど、それを絵に喩えるなら
質の高い写実画になるのだと思う。じゃあ抽象画の価値は低いかというと
そうではないでしょう。質の高い、説得力のある抽象画の「何か」を
伝えるパーセンテージは非常に高い。でもそれが再現率の高さとも
比例をしていながらも同時に写実的ではない、という逆説の在り方を
とるところに面白さがある。
僕はその方がより幅広く多くの人にきちんと伝わるように思う。
それは何故か。
何故だろうね。たぶんそれは、人というものがみんなそれぞれにモノを
観るからなんじゃないかと思う。僕が見てるものはあなたとは違う。
同じモノを観ていたとしても。でもそのことになかなか気づかない。
バナナを観ればみんな同じようにバナナを観てると思い込める。
だけどそれはバナナという価値基準を軸に、その周辺の側面を部分的に
認識してるだけなんじゃないかと思う。実質的な側面もそうだけど
もっとパーソナルな側面もね。つまり、自分はバナナを通して自分自身を
見つめてるわけだから。
総体としてのバナナは自分というフィルターによって全く別の存在となりえる。
僕はバナナを観ながらバナナに付随する何に思いを巡らしているのか
他人には伝わらない。しばしばそれはバナナでさえない全く別の事柄を
観てることも。だからバナナの絵をそっくりそのままきれいに書いても
それは他人との共通のアイコンとなるだけで「表現」にはならない。
自分の観ているバナナを他人に伝えるにはある程度の抽象化が必要だろう
というのがまあこの見解の大雑把な認識。
つまりそれが置き換え作業ということの意味。
置き換えることの深さは表向きにはあまり伝わらない。伝わるときは
深いところで伝わる。だからあまり目立った社会的効果はない。
社会的効果のないものは一般的にたいした価値のないものと見なされる
傾向もあるのでそれは仕方ない。でもそんなことよりも、置き換え作業の
大事なポイントは、基本的にそれは個人的なものである、というところ。
でも完全なる個人というものはないので、個人が個人の為に置き換えてる
その作業は結果的に社会にも反映するという事実。
それがアートというものが鑑賞者によって評価され認知されるという
こと。本当はアートに限らず全てそうなのだけど、アートが一番 現実生活
において無駄と認識されがちなものだから。「何の役にたつのか」という
具体的な問いかけに弱い存在というのは必ずどこかで誰かの役にものすごく
たっているものなのだけど。その証拠に人々はアートに救われているし
アートに依存してる。人によってはアートの定義が曖昧な人がいるだろうから
自分ではそうではないと思っていても、それは本人の認識不足なだけで
全ての人は必ずアートしてるから。
アートが「役にたたないもの」として扱われてしまうのは天変地異や
戦争や重い病気にかかるとわかる。優先順位が後回しになるから。
それは現実的に空腹を満たしてくれないし、わかりやすく命を救ってくれないし
雨風をしのいでくれないから。アートはそもそも置きかえられたものだから。
別の何かに置き換えられたものをアートと言うのだとしたらそれは何か。
それは個人の内面なんだね。
個人の内面が本質的に抽象化されて、置き換えられて、それが他者にも
伝わってしまうほど説得力を持っていると一般的にはアートと認識される。
だから全ての人間は常にアートしてるということになる。
それが伝わるほどのレベルでなければ認識されないだけのこと。
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山田ひろみ (火曜日, 15 5月 2018 07:10)
≪アート≫
目で観ているもの そのもの、
観ているもので感じているもの……100人いれば100通りある。
自分だけの中で感じているなら そのまま受け止めていればいいだけ。
でも表現者 アーティストが作品とするものは 誰でも何かを感じられるものであれば注目される。でも人間は常にアートしている!って妙に納得できて素敵だな