瞑想氏

<瞑想氏> 『白と黒』41号 1933年11月
<瞑想氏> 『白と黒』41号 1933年11月

おはよう。


うたた寝してしまった。

ぼんやりしたまま歯を磨いてたら目が覚めて。

でもまだちょっと眠いような。

それでふたたびおふとんにもぐりこんでみたのだけど案の定

眠れなくてまたもぞもぞと起きてきてMacの電源入れたりして。


明け方のMacってひんやり。この季節だからか。

ひざかけを肩からかけてるからひざが寒い。あたりまえだ。

カップに残ってたコーヒーも冷たい。かといってお湯を沸かし直すほど

いまコーヒーをのみたいわけでもなかった。むむむ。


とにかく明け方のそういうよくある時間なのです。いま。

目は覚めてるけどアタマは半分節電中。



谷中安規の版画展。

町田に版画美術館があるなんて最近知った。大きめな公園を抜けた先にある。

町田ってこんなに犬と暮らす人々が多い街だったっけ。

もはや犬の街だ。飼われてる犬にとって生活しやすい環境を作ったら

そこに犬の人達が住みつくようになって循環が始まったような印象。



公園を歩いててまた季節について考える。いつも室内作業ばかりだから

あんまりそういう匂いとか感じてなかったな。最近。

版画展に着いたらその日は期間中2日間だけ存在したらしい無料の日。なんか不思議。


展示会のポスターに使われてる作品からして初めて見る。

1930年代頃のヒトなのだけどポップで象徴的でどこかかわいい。

僕がそれまで持っていた「版画」という価値観をあっさり塗り替えてくれた。


あたりまえなのだけど絵の熟達したヒトだったんだなと感心した。

絵もポップで象徴的でまるでアニメーターのような資質もあるのでは、と思わせる。

けどそれは語弊を生みそうなので言わない。



本の挿絵ってだいすきだ。

まずその立ち位置に惹かれる。あってもなくてもいい場所にあること。

挿絵の必然性ってどれくらい本人達は感じてるんだろう。

あの必然性のなさにおけるもっと広い意味合いの中での必然性のようなもの。


それらがいてくれるだけでまるで森のなかでふと立ち止まって

辺りの空気の匂いをかぐようなはたらきをしてる感じ。

それはエフェクトなんだね。アンビエント効果をもたらしてる。


谷中氏の挿絵はその象徴性においてとてもよいはたらきをしてる。

シンプルで説明的でなくて、それでいて重層的に置き換えられていて

軽くなくて重くなくて、単体でも機能して、そしてなによりかわいい。



音楽におけるエフェクトというものが楽器の実音そのものではない部分が

あるように、肉声と環境音の境界線をさりげなく抽象化してる感じ。

ボーダーを曖昧にするっていうのはある種のやさしさだと思う。

ボーダーを明確にできるのはある種の強さかもしれない。

やさしさと強さは相反するファクターではないはずだけれども。

白と黒の中間。目には見えないグレーの部分。ハンドルの遊びの部分。

ひざで言ったら・・・軟骨?? なんかそれはちがう。




曖昧なものやグレーなものがすばらしいというのではなくてね。

それがあるからいろんなことがいろんなカタチで許される気がする。

強く太い線はそれによって更に強さを感じさせるし、逆に曖昧でないもの

を強調する。そういう間に挟まってクッションのようにいる一見なんの

役にも立たなさそうな存在に惹かれてしまう。


クッションがなければ相殺しあってしまうものね。

まるで一神教の対立と仏教との比較みたいになっちゃうけれど。

でもエフェクトというのは「効果」ということなだけあって

それを活かせないと本当にただの「無駄」だったりする。

その目的は「別の何かに光を当てる」こと。

目的ありきな行為なんだね。


光を当てると影ができる。それによって白と黒に分離する。

その分離感と淡さのダイナミックスの移り変わりに影響するんだと思う。

谷中の挿絵を眺めながらぼんやりとそんなことを考えつつ館内を徘徊。

もちろん彼の作品の中で挿絵として使われていたのはほんの一部なのだけど。



それにしても版画というのもある意味ではやはり白と黒の世界で

まるで影絵そのものみたいに見えるし、ロールシャッハテストのインク

にも見える。つまり人々は影に何かを見出すんだろうなって。

影に見出すのはやっぱり自分なんだろうなあ。これはある種の投影行為

なんだろう。「投影」っておもしろい言葉。誰が考えたんだろ?

影を投げる主体は意識的なのかしら。無意識的なのかしらん。



でも実は主体も客体もあまり関係なくて、ヒトという生き物は常に

無意識的に影を投げ合って暮らしてるのだとも思う。

そうやって距離をはかるんだね。何の距離だろか。

たぶん社会なんじゃないかな。社会的な唯一の生き物だから。

本来 問う必要のないことでしょう、自分の存在なんて。

でも自分自身が一番のブラックボックスだからみんな自分の影を

何かに投げて、アートしたり建築したり宗教したり哲学したりして、

つまりそれが投影なんだろう。それはやっぱり全ての生き物は死という

大きなイベントを内包していて、「死」という概念を模索してるのは

人間だけだからでしょう。はじめに言葉ありき、だ。

聖書にこの一文があるということが一神教の複雑さを決定づけてる。



全てを概念化してしまうのだね。「言葉」というものが。

その強制力について思いをめぐらせるといつも無力感に襲われる。

だってネコたちは自分達のことを「ネコ」とさえ思ってないのに。

ヒトは概念化しないと生きていけない生き物だから「社会」というのを

必要とするんだろう。家を作るように。自分がその中に住むように。

家も高層ビルも大聖堂もすべてヒトがアタマの中でイメージしたものを

具現化したものだから。だからそれらは「言葉」と同じもの。

言葉によって自然界以外の全てのものが作られてる。音楽も。部分的に。



でも音楽が特殊なのはやはり目には見えないという特性にあると思う。

楽譜は情報ではあるけれどサウンドそのものではないものね。

サウンドというのは言語の誕生よりも前にあったもの。

もちろんそこに音階という意味合い(ルール)を設けてしまったのは人間だけど。

ルール、法律みたいなこと。音階は意味合いであり、リズムは社会性そのもの。

だからあまりにもフリースタイルな音楽をやるヒトは

社会性そのものに対してなにか反応してるんだろう。無意識に。


これもいきつくところは個人の投影だ。

つまりヒトはここでも個を投影して生きてることになる。岡元太郎のいう

人間は芸術だというのは正しい。それが爆発であるかどうかは表現の問題。


アートというのは人間そのものでありながら同時に社会における境界線の

クッションだから。グレーゾーンに当てはまるもの。ハンドルの遊び。

遊びの部分だからそこはただの空白なんだ。そこには「何も」無い。

「何も無い」ということがこれほどの影響力を持つ事が大事と僕は思う。


ということは構造的には宗教とほぼ同じこと。(語弊あるけど)

でもある意味では宗教性というのもアートと同じで全ての人間の中に最初から

デフォルト状態で存在してることになる。当然だけども。なぜなら「はじめに

言葉ありき」だから。この1文はキリスト教の専売特許ではないと思う。

人間と言葉はイコールで結ばれてしまうほど言葉には実現力があるのだから。

都市にある全てのものは実際に言葉でできてる。街も飛行機も。

コンピュータも0と1だし。それって一神教の発想でしょう。0か1かというのは。

でもそれが悪いわけじゃない。自然科学が一神教の延長線上にあることは

自然科学の領域内だけで語る分にはとても有効なこと。


 

宗教性。これは純粋にただの本質的なエレメントの1つ。

でもそれが社会化した途端に「分裂」が生じて。分裂すると派閥が。

それで互いに殺し合わないといけなくなる。

殺し合う理由は思想/信仰の不一致を政治的に利用されたりすることによるもの。

それも言葉なんだね。個人個人ではなく集団という環境の中では理想はシンプルに

しないと伝播していかない。シンプルをつきつめると原理主義みたいになる。

色をシンプルにしていけば原色になるように。 

 

そう思うと人間というのは最初から殺し合いを回避できないように

プログラムされた存在なんだなって思えてしまって、これもまた

「はじめに言葉ありき」の本質に立ち戻る。

そしてやっぱり無力感に襲われる。僕ひとりでさえこんな堂々巡りを

繰り返すのだから人類がずっと同じような事を繰り返すのも仕方ないと思う。



あれ、谷中の版画の話をしてたはずなのにな。笑

 

彼の作品はほんとうに奥ゆかしくて素晴らしいけど最後は餓死した。

あんなにたくさんの作品を作り続けていたのに。時代背景とタイミング。個人の病理。

そういう事実を知って作品を眺めるとまた勝手にストーリーが生じてしまうのだけど。

そう、ヒトというのは物語の生き物でもあるから。



すっかり目が覚めてしまった。コーヒーでも淹れよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷中安規 <自転車A> 1932年