七月と象徴

車通りの激しいところに引越した。
なんか懐かしい喧噪。
象徴的な日々を過ごしてあっというまに七月になった。
 
 
引越の準備はただただ心楽しいだけのものではなかったけれど
今までの引越の中では最も有意義な時間のひとつだったように感じられた。
今までは引越に意味や象徴を見出すようなことはなかったから。
まあ意味についてはともかく、象徴的な何かを感じられるということは
僕のココロがまだ柔らかくて機能してることの証拠だ。
 
 
新居の外では何か大規模な工事が行われていてまるで残暑の蝉みたいな
ひっきりなしのノイズがトラックや救急車の騒音と一緒に窓から
飛び込んでくる。けれどそういうのもある意味ではこちらの問題だ。
それが癇に障る精神状態でなかったことに感謝。誰に感謝していいのか
わからないけれど。
 
 
なんでもかんでも象徴化しちゃうけど、今回新しくヤカンを買った。
お湯を沸かす為(あたりまえ)だ。なぜだか僕の中ではヤカンというのは
引越の象徴になっていて、そこまでこだわったような高価なものでは
ないけれど自分の生活感に合った質素なものを見つけてきた。
とりあえず毎朝それでお湯を沸かしてコーヒーを飲む。
台所に置いた安物のスピーカーから出てくる音が窓からの喧噪と混ざる。
ぼんやりとした時間が大事なんだな。眠る時間が大切なように。
 
 
世界を変えようとは思わないけど自分自身のことなら変えられるか
しれない。少しずつなら。自分自身というのは自分の抱えた傾向そのもの
だから今までの自分を否定しないまま超低速に塗り替えていく。
自分が変わっても自分を取り巻く世界ってそう簡単に変わったりしないけど
少なくとも何かが変わっていくのだとしたら、それを積極的に主観的に
行うのだとしたら微量のバイアス変化を自分にかけていくようなことかなと。
 
 
それには時間がかかる。自分のことひとつなかなか変えられない。
そこに必要とされるのは適量の負荷と継続、それから目に見えないほど
僅かな日々の軌道修正。あとはただただ膨大な時間。
地球の自転みたいに自分に見合った自転速度で同時に公転しながら、みたいな。
周期というのは未来に用意されてるものではないのだ。
 
 
それが毎朝ヤカンでお湯を沸かすことで始まっても良いと思う。
そんなことを徒然なるままに思いつつ。別に今までだって朝にお湯を
沸かしてコーヒーを飲む生活だったのだけどね。
でもまあとにかくそれが象徴の話。自分にとっての。
 
 
ひとつの節目に。