2013ノ師走。

 

 
また1年終わる。
大晦日の朝。良く晴れてる。軽い地震で目が覚めた。
コーヒーを淹れてErnst Reijsegerのチェロを聴きつつ。
 
1年を振り返るわけではないけれど、いつも楽観的にのらりくらりと
生きてきた約40年間、今年もいろいろと揺れた。
といってもたいしたことないんだけど。きっと人々はみんな揺れて
迷っていろんな思いや感慨や後悔にとらわれて日常を過ごしているはず
だから。僕もその範疇でゆるやかに揺れていたという感じ。
 
 
いろんな意味で大きな決断や過剰な気負いを感じるようなことは
なかった。むしろ更なるマイペースを意識したくらい。
マイペースを保ちつつ常に少しずつの負荷をかけてあげる程度。
増やさない減らさない。まあ意識することと実際にそれを行うことは
全く別の話。焦ったり不安になったりしながらも基本楽観的なのは
そうしないとマイペースを保てないからなのかも。
 
 
エゴイスティックにも音楽をやり続けているにも関わらず
それをアートと認識してるにも関わらず、自分の立ち位置は「鏡」
なんだと年末になってふと思う。
 
なんで年末になって思うかというと年末になってやっと今年始めた
ベースをまともにアンサンブルの中で弾く機会があったので。
ギターを弾きながらもそのことはよく考えてた。
楽器を操る人を見てるとその人の性格が非常によくわかる。
ある種の個が浮き彫りになる。その人が見てるもの/見えてないもの
聴いてるもの/聴こえていないもの、感じるもの/感じないもの
そんな漠然としたことが比較的わかりやすく伝わってくる。
 
 
それがそのままその人の日常であり生きてきた集積でもあったりして。
そういう様々な他人を見てると自分が見えてないもの、聴こえてない音
感じないことなんかが少しわかったりする。自分に欠けてるものって
わかりづらい。未知の世界。理解できてることだけで成立してるわけでは
ないからそれを思うとなんとも発見の日々なんだけど。
 
なので理解できてないことに目を向けたいとアタマでは考える。
でも理解できてないことはそもそもアタマの中には存在してないのと
同じことなので本人には見えない。「気づくか気づかないか」しかなくて
気づいた途端に見える/聴こえる。
 
世界の様々な情勢や土地や人々と一緒で、知らないものは存在しない
みたいな扱いについついなっちゃうし。
 
でも無理に何かに気づくことはどちらにしてもできない。
急いでも気づくまでは気づけない。無理に気づこうと急ぐと人は
思想の影響を受けちゃう。それは主観が過剰なバランスに思える。
そういうことを楽器を弾いてる人々を見ながら思う。
これは自分自身のことを語ってるのであって他人がどうのという話では
ないのです。念のため。でも他人を通じて自分には如何にいろんなことが

見えていないのか、聴こえていないのか、感じられてないのかについて

思いを巡らせる機会が生じる。それはやはり「鏡」的な役割があったり
するのかなって思ったり。
 
 
でも自分が音楽やってて「鏡としての立ち位置」と書いたのは
べつに他人に何かを気づかせる為みたいなニュアンスではなくて。
 
 
自分がそうありたいと望むと望まざるとに関わらず「そういう役割」
って出来てしまう。それを「関係性」と呼ぶのだと思う。
関係性というのは常に流動的なもので日常の中で様々にそのカタチを
変化させているもの。まるで生き物みたいに表現したのはそれはたぶん
人の生活に根ざした行為の顕われだからなんじゃないかと。
意識しててもしてなくても関係性というのは常に移り変わるし
人は無意識に役割を担ってたりする。それが一定の方向に特化して
くると父親/母親と呼ばれたり友達だったり教師だったり患者だったり。
もしくはプロフェッショナルと呼ばれたりあるいはシンプルに職業と
なったりするのかも。名前がつくというのは関係性のことかな?
 
 
自分がどんな役割を生きてるんだろう?とかって思い始めると
ちょっと自意識過剰になってしまう。無意識のほうが良いというケースが
たくさんある。ように思う。個人的に。
 
 
だから意識的に生きてる人々を見ながらその人の無意識的領域につい
目を向けてしまう。まあ「表」が見えてるわけだからその「裏」にある
何か。その表裏で1つの対なのかな。いやそんな整然としたものではないはず
なのだけど、便宜的にそう考えるとイメージしやすくて。悪い癖。
 
 
でもここでいう「表」というのも誰かから見た「表」であって
それは僕の目に見えてるものとまた別の他人の目に見えてる「表」は
異なって然るべきと思う。人は自分の見たいものしか見えてないし
聴きたいものしか聴こえていないから。
 
だから当然その「裏」だって僕の目に映る「裏」とまた別の他人の目に
映るものとは異なって然るべき。同じでも構わない。でも同じかどうかは
死んでもわからない。これを客観視というんだろう。
 
だから客観視とは主観視の統計学的なイマジネーションだと僕は思ってる。
他人がいないとできないこと。他人を用いて主観視しながらそこに含まれない
ものについて思いを巡らせること。これを「鏡」に喩えてしまうのは
やっぱり鏡とは何かを投影するものだからかな。そんなこと言ったらアート
は全て投影の行為なんだろう。作品が自分の鏡なのか、自分が作品の鏡なのか。
まあ鏡なんだとしたら互いに映し合うわけだから同じことか。
 
 
この「同じこと」ってなんだか怖いですね。
というのはそれを「鏡」に見立てて想像すると鏡を隔てて向こうとこちらに
identicalな世界が見えているような妄想にかられるので。
ムコウとコチラが存在することがなんだか自分を不安にさせる。
なんでかな。この世界には同じものが単純に2つとないからなのかも?
まあこれは妄想なのでどっちでも良いか。脱線。おなじみの。笑
 
 
 
度重なる脱線をしつつ、何が書きたかったのかしらん。
そうそう結局自分の話になっちゃうのだけど、今年も健康に恵まれて
1年ギターを弾いていられたわけだけど、常々「鏡」について思いを
巡らせていたことが他人と演奏したりベースを弾き始めたりしたことで
少し見えて来たような錯覚にとらわれたのかなって。
んー、なんでしょう。何についての考察なんだろ。
結局「意味」なのかなぁ。求めているものは。
 
そんなもの求めていたって向こうから顕われるものだからしかたない。
だとしたらなんだろ。「実感」なのかな。手応えというか。
ついついみんな理由を求めてしまうのは古代の人にはなかった傾向?
でも人って理由がないと不安なんだとは思う。
たいていの人は因果関係でものごとを納得してるはずだから。
そこを疑い出すとユングになっちゃう。
 
 
じゃあこれはそんなことを結論づける為の考察だったのだろか。笑
みんなが不安に生きてるなかで世界に向かって「わー不安です!」と
表現する場なのでしょか。いや、違う。違うですよー。
単純に今年も無事生きてることについてのノスタルジーなのかも。
だって大晦日じゃなかったらきっとこんな独り言なんて徒然なるままに
書いたりしなかったろう。老けたなタカスギケイ。
 
 
きっと僕の肝臓はもっと老けてるに違いない。
来年もマイペースを保ちつつ日々老いますように。できれば少しずつ。
マイペースって他人に嫌われるんだけど。非社会的だから(^_^;
 
 
今年も1年お疲れさまでした。
ありがとう。ありがとう。