また朝になってしまった。
眠り損ねた。仕方ないからコーヒーを淹れたりして。
周りの身近な人々が最近また煙草を吸うようになって
たまに煙草のことを考える。けどやめとく。
もっと体調が悪くなったらまた始めればいい。
今はまだ健康すぎる。
言葉にするのもどうにも億劫で、あまり書かなくなってきた。
何年も前にTVを全く見なくなったのと同じ理由だろか。
以前はいくらでも書けた。変換機能が変わってきたのかもしれない。
いろんなことを別のカタチに置き換えて、例えば言葉に、絵に
音に、造形なんかに置き換えるわけだけど、これまでは
随分と言葉に依存してきた。いや依存できてた。
今は「億劫」だ。
最近、最後に大量の文章を書いたのはいつだったかな。
そうだ、つい先日。夢を書き留めた時。
ときどき象徴的な夢を見るのでそれをメモしておく。
メモなので余計な肉付けはしない。かわりに描写をとにかく
徹底的にする。その描写になにか意味があるかというと特に
なにもない。けど寝てる間も生きてるわけだから夢を記録する
というのは無意識の日記みたいなものだろう。
日々の日記はつけられないくせに何か興味深い夢をみると
ついつい。
象徴的な夢でも見ない限りまとまった文章を書くという
欲求が起こらなくなってしまったんだね。きっと今は
言葉に変換する必要がないんだろうと勝手に解釈。
もしくは変換機が故障しちゃったのかも。
TVが映らなくなるように。それまでにあった機能が止まる。
それを故障と呼んでいいのかはわからない。壊れたという
のはあまりにも一面的過ぎるような気もするものね。
もしかしたらそれは次の何かに移り変わろうとする
過程なのかもしれない。じゃあ次の何かっていったい何だろう?
いや、これは一見「次の何か」にみえるただの「堂々巡り」なのかも。
というのが今 一瞬アタマに浮かんだ。
思い直してみたら堂々巡りというのはそれほど悪くない。
堂々巡りとは無変化のことではなくて。
ていうか、変化と無変化に価値の差異を求めるのもちょっと
乱暴な話だからこの考察はここでおしまい。
人というのは放っておいても変化しちゃうし、変化しないでは
いられないのが生き物の基本設定ですもの。ね。
さて箱庭の話。
と言ってもドラ・カルフが考案したような目的性のあるもの
ではなくて。とはいえ無目的というものでもない。
本質的には同じなのかしらん。
でも実際にハコを用意してそこに砂や水を敷いて人や動物や
建物を配置するようなことは・・・さすがにしない。
場所をとるし、素材を集めるのも手間がかかる。
かわりにと言ってはアレだけどエフェクターボードなんじゃないかなと。
ペダルに依存してる気の毒な人ならみんな陥ることではあるけれど。
とにかく頻繁に並べ換える。
そういった抗い難い衝動にかられる。並べ替えないわけには
いかないわけです。それがライブの1時間前だったりすると
「あーあ。やっちまった・・」と思う。でもそういう何か大事な用事の
直前とかにこの衝動を抱えるハメになる。
これをスイスのポストユンギアンの間では「エフェクトペダル
症候群」と呼んでギタリストの患者だけでも数万人を超えると
言われている。はずもなく。
依存の対象が移り変わる。機材の並べ替え、繋ぐ順列組み合わせに対する
依存というのは条件が揃ってしまうとある種のループが始まる。
「堂々巡り的箱庭ループ症候群」とつい先日 学会で発表されたばかり。
・・という嘘の情報が飛び交っている今日この頃。
実際のところペダル依存症とかループ依存症とかはまだ認知されてない
ただの時代の産物なのです。
でもそんなエフェ症の人も結局は生活環境にも依存するので
都内で電車移動ばかりの日々のしがない貧乏ミュージシャンは
やはり荷物を軽くしたいのですね。僕なんて機材担いで歩くように
なってからというもの身長が2cmくらい縮んだような錯覚さえある。
重力とその影響を受けた歳月を考えると何も起こらないわけが
ないとさえ思う。でも悲しいかな生き物は絶えず変化し続けてるので
機材抱えた移動に受けた影響は立証されず日々の生活に埋もれていく
隠れた事実となってしまう。あとには頭痛だけが残る。
そう、箱庭についてだった。
箱庭的にボードの中身を並べ替えるというのは何か効果が
あるのかしら。 むーわからない。いや、現実的に演奏面では効果
あるとも言えるし・・・というかもともと演奏面での効果を目的
として並べ替えてたはず。なのに、ふと振り返るとあまりにも
頻繁に自分は並べ替え過ぎるという事実に気づく。
何の為に??
なにか直面したくない現実から意識を逸らそうと無意識に
逃げてるのかしら。それともこのような別の何かに置き換えないと
いけないような見えない感情の波が底の方で流れてるのかなあ。
もしくは癒されるのだろか。並べ替えると?
もちろん明確な答えなんてない。明確にする理由もない。
ただ現時点ではこういうカタチでの依存傾向が見られるなと。
欲求というよりは衝動の話。
衝動のあとに欲求が高まるのですか?
衝動の発端はともかく、自分のボードがこのようになかなか
安定しない分だけ自分は安定してるような気もする。
もしくは逆にボードの不安定と比例して不安定してるとも。
少なくとも自分の意識を現実社会につなぎ止めておく為の装置
みたいな役割を陰ながら果たしてくれてるような気もする。
なかなかケナゲな存在だ。
んー、ボードの配列のように文がまとまらないな。
とにかく何を書きたかったというと、今まさにボードの中身をまた
並べかえてるところだっていうことなんですね。
なにやら某メーカーのちょっと高いボードを楽器屋の口車に
乗せられて(嘘です。ごめんなさい)使っていたのだけど、ある日
突然、本当に衝動的に分解してしまう。ペダルを1つ引きはがすと
それがトリガーとなって全てを引きはがさずにいられなくなって。
先週はダイソーに行って¥100で買ったまな板にペダルを並べて
みた。シンプルなのが好きなのです。それでしばし満足してたのも
束の間、またベリベリと最初の1つを引きはがしてしまい。。。
それで今度は休みの日にふと思い立って服を着替えて肩にバッグをかけ
ハンズに行ってウロウロと歩き回り物色し始める始末。
ようやく見つけた塩ビの板を指定したサイズに切ってもらってついでに
ドア用の取手とネジも買ってお金を支払い無表情のまま帰って来た。
2枚の板を1枚に張り合わせ、マジックテープのメスを貼り、
そこにペダルをレイアウト通りに並べて貼付けてケーブル類を繋ぎ、
最後にドア用の取手を端っこに取り付けて・・・その翌日にまた分解。
繰り返す。繰り返す行為は何かと向き合いきれてないからだと
昔のブログに書いた気がする。でも繰り返しが悪いわけじゃない。
ヒトは繰り返す生き物だから。でも繰り返してることに気づいたら、
それはもう次のステップに足を踏み入れてるのかも。
次のステップって一体なんだ???
ふむ。眠れない日はこういうことになるからどうもいけないな。
コメントをお書きください
山田 ひろみ (日曜日, 06 12月 2015 22:19)
配置を変えるイメージ、頭の中がヒラヒラ・きらきらしているように感じます。
ギターを奏でるミュージシャン・・・は・・・アーティストの中の一部分が突起しているんだなぁ。凡人の私には、
こんなにフットワーク軽く買い物に行き、作ったボードを作り替えるイメージわかない。
ちなみに・・・最後のボードが・・・私は好き!
***手は命ですから十分にお気をつけて下さいね(∩∩)***
タカスギケイ (火曜日, 08 12月 2015 14:35)
山田ひろみさま
コメントありがとうございます◎
ボードはその後も数えきれないほど作り直していて今はまた少し違った感じです。安定しすぎないのもひとつの安定なんですよね。固執し過ぎないというか。壊して作り直すのはもう癖みたいなものですけど。。
山田 ひろみ (土曜日, 02 1月 2016 01:51)
2016年になりました!
あけまして おめでとう ございます。 今、まだ、この挨拶でいいですかね?
壊して、作って、演奏して、、また 壊して、作る、、、
すごい適応力ですね。頭の中は、フル回転しているのでしょうね。私の頭では、一年かかっても壊せないかも 笑
今年もまたどこかで お逢いしましょう。