不自分解散とその他近況

       photo by 山口稔
       photo by 山口稔

もともとたいしたバンドじゃなかったけれど。 
でも真剣に向き合っていたものの1つではあったかな。 
どれくらい真剣に向き合っていたかというと、僕個人としては 
非常に珍しくできるだけ意見を口にしない努力をしてきた。 
このバンドに対しては。 


それはメンバー全員がいろんな意味でバラバラで個性的で 
それぞれに別の方向を向いていたし、またそれぞれに技術的な 
意味でも精神的な意味でも差異が目立った。 


どれだけ合わせようと努力してもなかなか同じ方向を向かず 
安定もせず一致もしない。でもそれぞれにみんな生真面目に 
なんとか良くしようと試行錯誤して。 


レベルで言えば全く高くない。僕がえらそうに言えたことでは 
ないけれど、はっきり言ってリハーサルの仕方も知らないバンドだ。 
リハーサルの仕方がわからないということはどこがどう悪いのか 
どう良くしていきたいのかわかってないということだ。 
にも関わらず気持ちやイメージが先走って技術が全く追いついてない。 
僕の方から音楽的なディレクションをすることは一切避けてきた。 




段階を踏み、時間をかけ、少しずつ変わっていくしかない小集団であった 
ことは事実。だからこそ自然に育つには余計な口を挟んではいけないと 
僕は考えていた。大人が子供をコントロールできないように、子供は 
自発的にのびのびと育っていくものだから。互いに合わない人や上手くいかない 
関係性があってもそれは継続された時間の中で擦り合わせがあり、常なる不満を 
抱きつつもその不満こそが修行になるわけだから、不満を排除すれば好都合という 
アイデアではこの合理的な社会と同じ理想構造になってしまうし 
それでは長い目で見て成長しないと考えていたのだけど。 



そういった理由から僕がこのバンドを宣伝するときは「少しずつ成長してる」 
「その成長過程を楽しんで欲しい」と言って来た。 
もちろん本当はそんなあまいこと言ってるうちはダメなんだけど。 
でも本当にその部分こそがこの集団の可能性であり良さだったんだな。 
「ダメなところ」が良さである、というのは矛盾してる。 




だから今回、ある日突然 "解散令" が出たときには「ふむ、残念だ」と 
思った。いろんな理由があるだろうけど、いずれにしてもこういうのは 
タフじゃないと続けられない。続かないものはまた同じことを繰り返す。 
同じことを繰り返すというのは自分と向き合いきれないからだ。 
自分を変えることが一番つらいから環境を変えようとするわけだ。 
でもそれは仕方ない。それがそのときのその人の在りようだから。 
今まで口出ししなかったように、僕は辞めることになってもやはり口出しを 
するつもりはないよ。ただただ「残念」と思う。そこで死んでしまった何か 
に対して無念に思う。細々とながらもそれは「生きてた」から。 




解散に際して僕のほうから1つだけ条件をつけた。 
それはこのバンドの主催者であった泥流とは解散以後、音楽的な接点を 
持たないことに決めようという提案だった。 

この部分だけ読むとまた大袈裟なと思われるかもしれないけれど、

これは自分にとっては大事な意味がある。以前、泥流と作った「梯子ノ上デ」というバンドを

泥流に頼まれて辞めることにしたときも辛かった。その苦しい気持ちはそう簡単に「無かったこと」

には出来ないんだね。サンパウロで矢崎あいちゃんと組んでたバンドでは僕はアルゼンチン人の

ダリオに同じように酷い事をした。そのことを今でも悔やんでる。

 


泥流のことも泥流の楽曲も僕は認めていたし好きだったけれど 
バンドという1つのコミットメントを崩壊させてしまったあとで 
ダラダラとまた何か挑戦してみようというのは僕は避けたかった。 
そういうことを繰り返していくことに加担するのはやはり危険だと思った。 
周囲の人間を振り回していくのは生きていたらしょうがないことでは 
あるけれどもう少しうまくやれるはずだと思う。 


それができないことを責めてるわけではなくて、自分なりに1つの 
価値観を提示してそれに沿って行動しようと考えたらそういった結論 
になっただけのこと。このバンドを通じていろんな人々と関わったので 
稚拙にもブログにてこのことは書いておこうと思った。 
泥流と僕のことをセットのように捉えてくれてた人々がいっぱいいたから。 
人々がそう捉えててくれてたのは僕なりのコミットメントが人々にも 
伝わってたんだと解釈してたんだ。 

それに僕自身もメンバーもこのバンドを大事にしてた。メンバーみんな 
他所でもこのバンドのことをまるで自分のことのように宣伝してたから。 
個人的にこのバンドもメンバーも大好きだった。 


「ただの相互依存じゃないか」と言われてしまえばそれまでなんだけど。 





さて。近況。 




ずいぶんと久しぶりにまた細々とギターレッスンを再開しました。 
ほんと、何年ぶりだろう? 教えることはそれほど苦手ではないけれど 
他者を育てることなんて絶対無理!と勝手に自暴自棄してレッスンを 
挫折して7年くらい経つのかしら。 


でも結局人というものは育てるものじゃなくて育つものなんだと 
今は思う。僕自身が育ってないままに浅はかにも偽善的な責任感に 
自分で縛り付けられていたようなところもあって、当時は苦しかったな。 
そう、人は自分自身に向き合いきれないと環境を壊してしまうんだ。 
自分を壊すのはつらいから。 
でもその環境も自分なんだね。その環境まで含めて自分だと認識すると 
環境を壊してる自分は軽い自殺をしてるのと同じだと思う。 
でもその自殺ではダメなんだね。それは象徴的な自殺として自分に深く 
還ってこないと自殺したことにならないから。トカゲのしっぽと同じ。 
切っても痛くないところを切って簡易的な自殺を無意識にしてる。 
でもやはり切ったら痛くないといけない。でなければ繰り返すことになる。 




とかげくん、ごめんなさい。 
とかげのしっぽは危険から身を守るための手段の1つであって 
人間の精神性の1つの顕われ方と「同じ」と表現したのは便宜的な意味であって 
とかげを卑下した意味では全くありません。傷ついてないといいけれど。 

(それにとかげは言わないだけできっとしっぽだって切れたら痛いよ) 

 

 

 

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 7
  • #1

    野村昌秀 (月曜日, 30 7月 2012 18:44)

    転勤でバンド活動が、不可能になったり、今まで解散は色々ありました。

    ケイちゃんのブログを読ンで、昔、友人の大学の講義に紛れ込ンで、学生のふりして

  • #2

    野村昌秀 (月曜日, 30 7月 2012 18:48)

    転勤でバンド活動が、不可能になったり、今まで解散は色々ありました。

    ケイちゃんのブログを読ンで、昔、友人の大学に紛れ込ンで、学生のふりして受けた教育学の
    講義を思い出しました。

    教育というのは、先生が生徒に何かを教えると

  • #3

    野村昌秀 (月曜日, 30 7月 2012 19:01)

    >タップミスで 途中で( ̄。 ̄;)

    続き

    教育は一方通行ではなく、二人以上の人間関係の間に相互的に生まれる。



    そンな講義を思い出しました。

    私は、そこそこ精一杯?もがきながら、演奏を出来ている状況に幸せを感じています。

  • #4

    kei takasugi(タカスギケイ) (月曜日, 30 7月 2012 19:16)

    うんうん、その通りですよね。
    教育だけでなく全ては関係性の中にあるんだと思ってます。
    ユングの治療もそうでしたしね。関係性があるから人は治る。
    情報だけでは何も動かないんですよね。

    コメントありがとうございます☆

  • #5

    T.Ikaorih (月曜日, 30 7月 2012 20:57)

    既に過去形で書かれた文章を読んで、無常感のようなものを感じました。
    こうやって突然に終わるものもあるのかと。
    形のあるものは何であれ形を変える。壊れたり進化したり。こういうのも色即是空というのでしょうか。
    不安定さや相互依存はどこにでも存在しているし、成長性や可能性にこそ価値があるものってたくさんあって何の矛盾もないのに。
    でも、終わることがまた始まりなのだと思いながら読みました。

    明日のライブ、聴きに行きます。

  • #6

    kei takasugi(タカスギケイ) (火曜日, 31 7月 2012 03:38)

    コメント感謝です。
    そうですね。生きてるものは何であれ変化し続けるものですものね。
    でも時にはその変化に人はついていけなくなるんでしょう。
    無常というのはよく人間のことを言い当ててますよね。
    人の生の中で唯一平等にあるのが「死」だからついつい変な書き方をして
    しまうのですが、象徴的な死には生まれ変わりがきちんと起こりえると
    思ってます。実際の死についてはそれは残された人々の問題になってくるけど
    象徴的な死というのは生のプロセスだと思えるんですね。まさに頂いたコメントと
    同じように思います。
    ライブ、ありがとうございます!

  • #7

    山田ひろみ (火曜日, 05 7月 2016 03:08)

    こんばんは
    今日は2016年7月5日、「引き継いだもの」を再度読もうと開いたブログ。
    「不自分解散とその他の近況」に目がとまってしまった。
    今日の私に必要だったメッセージなのかも。
    バンドという一つの集団、どんな集団であっても・・・自発的にのびのび育つ・・・自発的に育つために集団には
    まとめ役、方向指示、どうなりたいか?上手に導く、けしてコントロールじゃない方向指示が必要なのかと感じた。
    不自分には方向指示があったならごめんなさい。
    継続の大切さ、だらだらと継続ではなく目標があり、皆でつくる。皆で成長する。そんな関係。
    ひとり一人がもつバイタリティーさ、タフさは違って、合わせることが簡単であったり大変だったり。
    自分を変えることが簡単だったり大変だったり。

    私個人的には、自分を変えることは他人を変えることよりは簡単で、
    でも自分だけではどうにもならない時にはその手助けを借りるために環境を変えてみることもあり。
    ただ決めたことを継続する覚悟、決めたことを行動し、よい結果も結果的に悪いことも受け入れ責任を持つこと。
    それは自分に素直で痛みも受け入れる体と心のバランスが取れていれば簡単であって・・・

    支離滅裂になってきました。ブログからかけはなれたかも。
    ・・・いつも健康で自然体・・・自分を大切にしていれば、ケイさんの持つ価値観のように、皆ひとり一人にも価値観
    があり、その都度決断して、自分に素直に生きられるのかな?