ある日突然 何かを譲り受ける日がくる。
それは誰かの形見かもしれないし、誰かが弾かなくなった楽器かも
しれない。誰かの歴史が刻まれた指輪かもしれないし、誰かの書いた日記かもしれない。
その日 僕が唐突に譲り受けたものは1枚のB5サイズのコピー用紙だった。
僕は居酒屋で呑んでいて店はそれなりに混み合っていた。空いた席は1つもない状態だ。
しばらくぼんやり呑んでいたのだけど右隣に座っていた男性に話しかけられた。
歳はいくつくらいだろう、55~65の間くらい? どうも他人の年齢を推し量るのが苦手だ。
僕自身もきっと歳相応には見えないだろうし、歳の話をするのも面倒なのでこちらからは
基本的に尋ねることはないのだけれど。
そう、その男性と何を話すともなく会話をしているうちに彼が言う。
「あなたを見てたらね、なんだかこれを差し上げたくなりました」
そう言いながらズボンの後ろのポケットからごそごそと4つに折り畳まれた紙を出す。
随分と雑に折り畳まれていたそれはコピー用紙の束だった。
何枚ものB5サイズのコピー用紙の中から1枚を選ぶと僕に無言で手渡してくれた。
それは2枚の写真を半分ずつに割り当てたコピーだった。
元の写真はカラーだったのだろうか?それともモノトーン?
推測するにたぶんモノクロの写真だったんじゃないかと思う。でもわからない。
でもそれは僕が「一体なんだろう?」と想像してたものと全然かけ離れた
2枚の写真だった。もちろん彼が撮影したものではない。彼はそれをどこかで発見して
思わずコピーをとって自分の為に持ち帰ってきたものに違いないのだ。
そして僕はその2枚の写真とそれが複写されたこのしわくちゃになった1枚の紙に
すっかり魅了されてしまった。まず写真に魅せられた。それからこれをわざわざコピー機
にかけて10円支払ってコピーしてきた男の「想い」のようなものに打たれてしまった。
それがこのコピーの撮り方、折り畳まれ方、ズボンのポケットに雑に押し込まれていた感じ
からとても明確に伝わって来た(ような気がした)。
コピーされた紙には下のほうに注釈がついていた。
写真家はどちらも同じ人物らしい。カルラ・チェラーティ。知らない人だ。有名なのかな?
僕はとにかく写真家や絵描きについては全く無知だから。
その横に年代が書いてある。どちらも1968年だ。そして撮影場所はそれぞれ違う。
左が精神科医院フィレンツェ、そして右が精神科医院ゴリツィアとある。
そうか、精神科の風景なんだと思いながら不思議な気持ちになる。
そしてこのコピー用紙をくれたおじさんの顔を見上げる。でもおじさんはにこにこしながら
正面を向いて酒を呑んでる。我々はカウンターに隣り合って座っている。
精神科はともかくとして僕はとにかくこの1枚のしわくちゃな紙切れに惹かれてしまい
仔細に眺めていた。それはもう結構な長い時間ずっと眺めていたように思う。
写真だけを眺めていたわけじゃないんだね。紙そのものを眺めていたように自分では感じて
いたんだけど。
そしてもう一度おじさんの方をふりかえり尋ねてみる。「これを頂いちゃっていいんですか?」
彼はにこにこしながら「差し上げます」と言う。
何でこの1枚を僕に譲りたくなったのか不思議に思った。だって彼はきっとどこか(恐らく図書館だ)
でいくつかの写真集を眺めて、特定のページだけ(恐らく彼が何か感じたページだ)をコピーにとり
それを乱暴に折り畳んで後ろのポケットにしまって帰って来たに違いないのだ。
そんな心の動いたものをたまたま隣り合った僕なんかにくれてしまって良いのだろうかと
ちょっと心配になって、それで尋ねてみた。でも僕は変な話だけど、最初にこのコピーを見た瞬間から
「欲しい」と思ってしまっていた。そしてこのおじさんが誰なのかも知らないままに、僕にくれようと
してくれてることに嬉しいと感じていた。
あまりにも僕が沈黙したまま熱心にこのコピーに見入っているので、そのことに少し驚いたらしい
おじさんが僕にその他のコピーを束のまま手渡してくれた。それらは全てが精神科の写真ではなく
全くと言っていいほど脈絡のないそれぞれに独立したものだった。そして彼は僕に「そんなに熱心に
見ていただけるのなら全部差し上げます」と言った。
僕は慌てて断った。「これ1枚でいいんです。そのほうが大事に思えるし・・」と言いかけたところで
彼も察してくれたみたいですぐにそれらのコピー用紙の束をまたがさがさと汚く畳んでまた自分のズボンの
後ろのポケットにしまった。それらは最初に折り畳まれていたのとは違う角度でさらにシワがつくように
折り畳まれていった。
せっかくどこか通じ合うところがあったとしても、せっかく隣り合って座った何かの縁だったとしても
あいにく僕には見ず知らずの他人と会話を弾ませる才能も意志もないので黙ったまま そのコピーを
眺めてにこにこと酒を呑んでいた。でもそれを譲り受けたことは心から嬉しかった。
これはどこかから僕の手元に来るべくして来たもののように感じられた。でも繰り返すけれど、この写真
を撮った人に惹かれたわけじゃない。この汚く折り畳まれたシワのついたコピー用紙に僕はこの上なく
惹かれてしまっているのだ。
何本目かの日本酒を呑んでるときにまた彼がぽつぽつと話しかけてきた。
見ると店の人にペンを借りて(恐らく)自分の住所を紙切れに書き込んでる。
それを書きながら僕に「絵描きでは誰が好きですか?」と尋ねる。絵描き??
そういうとき、急に尋ねられると僕はほぼ100%まともな答えを返すことができない。
僕は人に何かを尋ねられて自分が一番大事にしてるものや本当に思ってることを素直に伝えられない
困った性格をしてる。でも変な嘘をつくわけにもいかないからできるだけ近いものを答えるようには
努力してみる。こういうのって制限連想テストみたいなものだとつくづく思う。
そしてその連想テストで僕が最初に出した答えは「藤田嗣治」だった。その次に提出したのは
「田中一村」。もちろんどちらも大好きだ。でもそれが本当の答えじゃないことを僕はよく知ってる。
好きな絵描きに限らずとにかく一言で明言できるような答えを僕は出せない人間なんだということを
自分が嫌いになるほどよく知ってる。逆に他人が一言で明言したような発言を100%は信じない自分
もいる。まあ同じ事だ。
おじさんはそれでも構わず「他には?」と問いかける。
いくつか名前の挙がったあとに彼は「田中一村だけはちょっと意外だったけど」と言いながら
僕にその住所の書かれた紙切れをくれた。それで僕の住所も欲しいと言う。だからそのペンを
借りて自分の住所を書いて渡した。自分の書いた字を他人に見せることさえ恥ずかしくて普段から
書かない僕としてはやはり気恥ずかしかったけれどとにかく渡しても良いだろうと思って頑張って
丁寧に書いた。それでも僕の字は汚いんだけど。。
そしたらおじさんが「自分もちょっと絵を描いたりしてます。今度あなたに描くので送ったら
見てくれますか?」と言う。びっくりして思わず「これから描くんですか?」と変な質問を
してしまった。
でも普通に「はい」と言うのでなんと応えて良いのかわからなかったけれどこちらも「はい」
と応えてその話は終わった。僕は勘定を支払って先に帰ったし、彼とはまたどこかの飲み屋で
たまたま会うかもしれませんねくらいの挨拶を互いにして帰ってきただけだった。
唯一、彼の明確な意思表示があったとすれば彼は握手をしない人だった。
僕ももともとは握手はしない人だったけれど、いろんな人といんな場所で会うなかで
握手というのは1つの好意の象徴と考えてるところがあって、そこまで積極的にではないけれど
別れ際にすることもある。それで手を差し出してみたけれど、彼は柔らかく、しかし断固として
それを拒否した。うん、なかなか明確な人なんだと改めて思った。
僕にはない明確さだ。僕は相手のカルチャーの方を尊重してしまう。まあ全てではないけど。
相手が別れ際にハグをするなら僕も勇気を振り絞ってハグするし、別れ際にキスする人なら
かなり無理してそれに応じる。握手をしない人なら僕も喜んで握手しないで別れる。
そしてそれから数日が経ち今でも僕の手元にはこの1枚のコピー紙がある。
やはり好きだ。なんだろうね。この感覚は。そして何故よりによってあんなに沢山あった
いろんな写真の中からこの2枚の精神科の風景なんだろう?これを僕にあげたくなった理由なんて
僕には全くわからないけれどとにかく「ああ、僕についてきちゃったんだな」と思ってウチにいる。
いつかそのうち絵が送られてくるのだろうか?
でも絵のことは特に今は何とも思わないな。僕は僕が象徴的に引き継いだものの持つその象徴性に
不思議な震えを感じながらまじまじと眺めているんだね。それについては言葉を与える必要は
ないんだと思いつつ。それは言葉では表現され得なかったからこそ象徴としてそこにいるんだと思う。
*コピー紙を僕がカメラで撮ったから光の反射は僕のせい。でもこれをくれたおじさんも「コピーをしちゃったからちょっと違う感じになっちゃった」としきりに気にしていた。
*左の写真。僕が最初に目が行ったのは右側のものだった。つまりこの上の写真。だから何?と言われると何とも言えないのだけど。ともかくこれがフィレンツェ。上のがゴリツィア。
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野村昌秀 (火曜日, 10 7月 2012 23:46)
このブログを読ンだ人も
ソレを 引き継いでいる
のであろう
kei takasugi(タカスギケイ) (水曜日, 11 7月 2012 00:50)
かもですねー◎