映画の事をブログに書いたけれど、今頃になって思い出した。
あれは通奏低音的に「ヨブ記」を持ち出していたことを
すっかり書き忘れてた。「神は与え、神は奪う」のヨブ記だ。
そういえばC.G.ユングは「ヨブへの答え」を書いていたなあと
思って。でもあれはユングがあの時代のヨーロッパに生まれ育ち
いろんな意味で宗教的な在り方に疑問を持ったからだと思う。
彼自身の父親との関係性もあるし。
彼が例えば日本に生まれていたら「ヨブへの答え」は書かなかった
だろうと思える。本当にそうかはわからないけれどかなりの確率で。
(いや、内心では「絶対に」とさえ思ってる)
でもともかくヨブ記ってなんだかいいなあと思う。
ああいった凄まじいものは東洋にはない。
なんていうのかな、ある種の厳しさ。異常にさえ思える。
ああいったものが根源的にあることが時に羨ましくさえ思える。
屈折し過ぎていてというか、ややこしくてその真意が見えにくいのだけど。
「神から幸福をいただいたのだから不幸もいただこう」という概念に
に感銘を受けてるわけでもなくて。不遇や災いに対する向き合い方と
いうべき「姿勢」を敬うわけでもなくて。
そういった厳しさを育ちながらに内在させてる上での「葛藤」というところに
価値があるように思える。実際に「神は与え、神は奪う」を本当に理解してる
イエスの信者はそれほどいないんじゃないかとさえ思える。想像だけれど。
もちろん僕だって理解してない。当然だ。
でもその理解し難いからこそ考えあぐねて葛藤をしてる信仰の姿は僕から
見てとても理想的な宗教のカタチだと思える。
そう、あの作品は「ヨブ」を基調としてるところにフックがある。
それで前回書いた「葛藤」が本質的にソリッドに表現されようとしてる。
なんだか帰宅して夜中にそんなことをふと思いついたので忘れないうちに
書き留めておこうと思って。まあ自分の為に。別にキリスト教徒でもなんでも
ないのだけれど。そもそも「原罪」という感覚が日本人には馴染みがないから。
コメントをお書きください
steelbeck@gmail.com (日曜日, 02 10月 2011 10:09)
君の話はバックグラウンドが分からないと難しいなあ。とりあえず、なんにせよ、あんまり、りりじょん系の解釈に向かうのはどうなんだろうね~。ファンタジーとしてなら「細胞」とか「免疫」とかも面白いかも。(^^)
kei takasugi(タカスギケイ) (日曜日, 02 10月 2011 20:41)
そうですねえ(^_^; わかります。でも他人の信仰をとやかく言うつもりはないんですよ。信仰そのものの在り方の個人差には興味あります。あるいは自分のことにしか興味がないのかもしれないけれど。。この映画作品自体が監督のそれなのか誰の描いた物語なのかわからないけれど(いや、物語ではなかったな)とにかく宗教的解釈を作品にしていたのはこの映画の方で、僕はその映画を観てその宗教的側面を言葉足らずにフォーカスしたのかな。
ふと思ったのですが、細胞とか免疫系の話もかなり宗教的な側面が存在するように思えます。多田富雄という人の本を少し読んで思ったことでしたが。「免疫の意味論」てやつ。でも結局そういった事柄は自分自身にとって血肉を持った現実として取り込んでいかないとただの知的戯れになりがちですね。今回このブログを書いてみて、同時に華厳宗がらみの仏教の本を読むと深くうなづける部分があったんです。ヨブ記から明恵上人にまでワープできるような側面が。
steelbeck@gmail.com (火曜日, 04 10月 2011 15:12)
宗教って結局ずっと遡った元は皆同じなんだろう?。(つまりストーリーを書いた人)何であれ繋がりを発見するのが当然だとも思って。それぞれの場所と都合でのオルタネイトバージョン。映画に関係なくてすまん。(^^ゞ
kei takasugi(タカスギケイ) (水曜日, 05 10月 2011 09:01)
そうですそうです。宗教って結局人がすることなんです。音楽とかと一緒で。「宗教」っていうとみんな信仰とか神とか団体とかイメージしてしまうけれど、僕が焦点をあてたかったのは「宗教的側面」ですね。それは宗教そのものとは無関係で。音楽の宗教的側面はそれに何を見出すのかの個人差にもよりますが、その人個人の一生を通じた音楽との向き合い方は僕は「宗教的側面」だと思うんです。それは大袈裟に言えば生死に関わる遠回しな考え方だし、身近な考え方なら日常的なことでもあるし。そういう意味では人間がすること;アートでも建築でも政治でも宗教でも戦争でも;そういうのは僕は全部関連づけて考えてしまうから、個人をつきつめれば全部そこにあるみたいに、説明をしないとかなり乱暴な考え方をしてしまってるのをこうして露呈してるのだと思います。ただ、映画の内容がピンポイントでキリスト教的な側面があったので、感想文がより偏ったとも言えます。でもヨーロッパやアメリカの映画ってそれが生死に関わる物や男女間の関係性に関わるものならどんな映画でも宗教的側面を持ってます。当たり前だけど。だから宗教そのものを論じるのじゃなくて、その宗教的側面を見ようとするのはそういった「他者」の鏡に自分を映して自分自身を見ようとする行為だろうと思ったりして。例えば日本で一番宗教的なのは「夫婦」という関係性だと(僕は)思うんですけど、その関係性が日本では健常者の一個人が自身と向き合う率が一番高いと思います。下手に宗教団体に属してる人よりも結婚して子供を授かりそれを継続させていくことの宗教的側面は大きいなと思う。あとはあらゆる意味での健康でない状態というのもそうだろうなと思う。mixiに来たコメントにも書いたことですが、そこに何か自分の信じることがあるなら、それを疑う瞬間が訪れたときに葛藤して迷う姿が自然だなあということを書きたかったんだと思います。迷って、信じ続けたいのにわからなくなってきてしまって・・というのが音楽でもなんでも信仰のスタート地点だなと自分では実感していたので。
でも「音楽」という言葉を使ってもそこまで問題はないのだけど、「宗教」という言葉を使うとみんなの反応が厳しくなる。それは人それぞれの価値観、生き方だからノータッチで、と言われてしまう。音楽もその人それぞれの生き方だと思うのだけど。
特に他人のアルバムを聴いてるとそういった個人の感じがひしひしと感じられて好きです。何もいつも音楽を聴きながら「ああ、キリスト教だなあ」とか思ってるわけではないですよ(^_^;
steelbeck@gmail.com (水曜日, 05 10月 2011 10:41)
激しい反応は、宗教と言えば所謂「カルト」や「マインドコントロール」的な?ものへと連想しちゃうからかしら。(笑)盲目的な愛や献身はとても怖いし・・・言葉で考えるのは難しいね。音楽そのものは良いよ。何であれ、健全だと思う。人間の「脳」とは何と素晴らしいものかと思うんだ。君の言う通りに何にでも宗教的側面はあると思う。だから良くも悪くもそれを利用しようとする。結局さ、そういうフィーリングをどこかで感じたりすると僕はいやな気分にさせられるんだよ。
kei takasugi(タカスギケイ) (木曜日, 06 10月 2011 00:57)
厳しい反応は特に日本国内に多い傾向ですね。それはやはり日本人が宗教というと連想してしまうものがある種の胡散臭さを持ってるからでしょうね。お墓参りに行ってもみんな胡散臭いとはそれほど思わない。みんな自身の宗教的バックグラウンドをそれほど知らないというのも今ではあるんだろうし。実は僕も全く知らないのですが。まあいずれにしてもそれは僕が書いてたこととはまた違った論点の話です。もちろん海外ではそういった宗教の話はpolitically incorrectnessと言う判断になるとは思います。
「良くも悪くも利用される宗教的側面」というのはたぶんあるんでしょうね。「いやな気分にさせられる」というのは「利用しようとする」ケースがあるから? もしよろしければその理由を教えて頂いても構いませんか? 僕自身はある種の「カルト的側面」に対して嫌悪感を抱くことがあります。でもある種の宗教性に対してはそれを宗教として扱ったりはしないので特にないんです。
「カルト」となってくると集団性も生じるし、僕はそういうのが全く苦手で好きになれない。「宗教」というのはある種の教えの存在ですね。「宗教性」は物事に含まれるある種の本質的な部分..?何と言って名付けていいのかわかりませんが、それは宗教ではないですね。「real」と「riality」の違いみたいなものです。ええと、どういったらいいのかな、タカスギケイの演奏に見られる「Bill Frisell的側面」みたいなことです。僕の中で良くも悪くもFrisellが利用されているのかもしれない。あるいは僕にそのつもりはないのかもしれない。でも僕はFrisellじゃない。・・・いや、この喩えは逆にわかりづらいですね(笑)
でもこの喩えのまま展開すると、例えば僕の演奏に「Landau的側面」が垣間見えた時にも同じように「いやな気分にさせられ」ますか? たぶん違うと思うんです。それは「良くも悪くも利用された」からという理由ではなく、(推測するに)「宗教」というフレーズに含まれる「カルト的側面」を「宗教的側面」だというふうに認識するからなんじゃないかなあ、と。
つまり「音楽」でも「宗教」でもそれを作ったのも人間だし、それを「健全」じゃないものにするのも人間なんだと思ってたので並列的に扱ったんですね。
でもわからないです。あてずっぽうで言ってるだけだし、全然違うのかもしれない。ただ、そういった「普通に流せない反応」というのはとても興味があります。僕がブログに書いた理由はやはりそれが「普通に流せない何か」を感じたからだったんです。つまりそれがここでの僕たちのやりとりにおける「宗教的側面」もしくは「カルト的側面」がどこか我々の感情の根底に作用したからなんだろうなと思うんですね。でも繰り返しますが、それもあくまでも推測です。
ともかく感情についてはとても興味があります。こうしてお返事を書いてもらえるのは個人的にとても嬉しいのです。いやな気分にさせてしまったことについてはすみませんでした。
steelbeck (木曜日, 06 10月 2011 10:36)
ああ、誤解しないで。君の文章で嫌な気分になったりしてないよ。(笑) 面白かったからコメントしたんだ。(^_^) 採り上げる例として良いか分からないが・・・例えばゴスペルってあるでしょ。僕はイマイチだめなんだ。幸いにして歌詞が分からないから単純に音楽としては楽しめてるんだけどね。でも「宗教的側面」を利用してるとかいうつもりはないの。だって利用するとかじゃなくてそのものだろう?。でも、正直言ってあれをみんなで合唱する気にはならない。重ねて言うと単に「音楽」だからってだけなら構わない。
そもそものポイントからずれ始めてるのかも知れないけどゴメン。要するに音楽は「音」の組み合わせ」でしかない。僕はそこに意味を見出してる。余分なものはいらないんだ。感情が無いなんて思わないでくれよ。(笑) 解釈はいくらあっても良いよ。だから楽しいってのも分かるんだ。ゴスペルもそうだけど、つまるところそれはあくまで聴く人の勝手だから。これは僕の信仰かな?宗教かも?でも人に説明しようするとややこしい事になるからな~。(苦笑) 音楽原理主義?。所謂「歌」はまた違う話なのだけれど。
君の中の経験やいろんな側面が楽曲やプレイに反映されるのは当たり前の事で、それは聴く側の勝手な楽しみでもある。大いにやっておくれ。(^_^)