フレームについて


2枚目のソロアルバムを作って7月に出して、その後。 


8月はなんだか忙しかったな。ライブも沢山やった気がする。 




9月に入ってもバタバタしてて。 
なんだか落ち着かない気持ちのまま時間だけ進んで行く感覚はもう 
いつからそうだったのかが思い出せないな。浮ついてるのかしら。 
浮つく理由もないままに。 




さて。 



以前、TwitterにBrian Enoの言葉をメモ用紙代わりにつぶやいた。 
フレームについて。フレームについて。フレームについて。 




フレーム自体が自分の価値基準なのだろか。 
それは写真家がシャッターを切る瞬間みたいに。 


被写体が何であれ、写真家も絵描きも自身のイマジネーションの中で
自前のフレームを設定することによって「何か」を切り取る作業をしてる。 
それは音楽においても同じことなんだよな、ともいつも思う。 


つまりはそのフレーム設置行為そのものが「その人」の価値基準だということになるんだと
仮説してみる。被写体そのものではなく。だって同じものを見ていながら、その解釈によって
それぞれに見える「モノ」があるわけだから。 


「ただの存在」を自分にとって「意味のある存在」に置き換えること? 



とにかく被写体(あるいは物事における被写体的な存在)は誰かが「切り取る」ことによって
初めて被写体として存在するのかもしれないと考えてみる。 
それは往々にしてフレームを自分から「置く」という行為なんだろうな、と。 



つまり「どこにフレームを置くのか?」という設問になるんじゃないかしら。 
それも「いつ」置くのか。いつ/どこに置くべきかを自分は知らされているのか? 



それは音楽や写真や絵画だけに限ったことではないと思ったりもする。 
自分が関わる物事であれば全てにおける設問になるんじゃないのかなと考えたり。 






ふとそんなことを思ったのは8月いっぱいで営業を停止してしまったルイナの 
入り口の暗い階段の下から地上を見上げたとき。 




入りの時間が比較的早い時間帯で、僕はまだ店主の到着する前に着いてしまった。 
地下のドアの前でぼんやり佇んでいて、ふと階段の上を見上げたらそこに切り取られた空が見えて。
夕方の地上は暗い階下から見上げるとまだまだ明るくて真昼のようだった。
そこにすごいスピードで夏の雲が流れていくのが見えた。 





外で空を見上げたときはそんなふうには見えなくて、雲もいつものようにぽっかりと浮かび
流れているのかいないのかわからないくらい緩慢な存在だったのに。言葉ではうまく説明しにくいのだけど、
うす暗い地下から見えた小さな四角いフレームに収められた空は明らかに「別の何か」に焦点が
しぼられていたように思う。 





それは不思議な気持ちを伴う時間だった。何か見てはいけないものを見てしまったような気さえした。
不吉ではないけれど、何かの核心に心の準備もないままにふとしたはずみで触れてしまったような。
ああいった種類の静けさを味わうことは今までなかったように思えた。どんな森の奥でも。 



そこは池ノ上の駅前なのに。でもそれはほんの一瞬のできごとだ。その瞬間の中にすごく長い時間性を
含んでいただけなんだと思う。その時間性はフレームがそこになかったら気づく事の無かったものかもしれない
と後になって思ったわけだ。 




それがフレームを置くということなんだろか? 




フレームと時間性はどんな関係なんだろう。そこに切り取られることによってある種の深い時間の流れが
見え易くなる、とか?自分の血管を通過する血流の動きはそのままでは見えないように? 


フォーカスすることとフレームを置くことは似てるところもあるけれど微妙に違うのか。そこにフレームを
置くことでフォーカスされる何かが浮かび上がったりするのかな。あるいは置く人は浮かび上がらせるものを
その目にフォーカスしているからこそフレームをそこに置くのかもしれない。その2つの行為には先も後もない
のかもしれないし、あるいは厳密な手順が存在するのかもしれない。 




ともかくそんなことをぼーっと考えてた夏の夕方の数分。 
何で今頃になってそんなことを思い出してここに書こうと思ったんだろう? 
でも思えば その日がルイナで弾いた最後になったな。 
感傷ではなくてね。今は無機質にふと思い出しただけ。かたくもなく、やわらかくもなく。 
あたたかくもつめたくもなく。 





うーん。とりあえずコーヒーでも淹れよう。 






関係ないけど↓ 無機質で無感情で無意味。