frisell

昔はそうでもなかったのに今ではひどく怖いと感じる飛行機に 
久しぶりに乗った。いや、昔から乗るときはいつも「今日こそ落ちる」 
と思いながら乗っていたけれど。 


行きの便では持って来た本の一つをすぐに読み終わってしまい 
計3冊あった僕の時間と心の空白を埋めてくれるはずのそれらは結局 
3日間くらいしかもたなかった。 


仕方なく滞在先の本屋で2冊購入。 
一つは英・英の辞書だ。 
これは飽きないしなかなか読み切れるものじゃない。 
もう一つは過去に読んだことのあった"Kafka on the Shore"の英訳。 


いつものようにJ.ルービンさんが翻訳してるのかと思いきや 今回は 
P.ガブリエルさんという人だった。 
作品の翻訳というのは難しいものだなと常々思う。 
作家の文体というのはシンガーの声でありピアニストのタッチだ。 
いや、ちょっと違うか。シンガーやピアニストの「語り口」かな。 


つまり翻訳というのは忠実なるコピーでありながら同時に別言語である 
わけでそれぞれの国の言語にはその言語を構築する背景があり それに 
見合った「言い回し」があるわけだから。 

基本的にはこれは「直訳」作業だと思う。そしてその言語的背景 
(文化や時代の背景)とのギャップを埋める時にのみ「意訳」が必要になるの 
ではないか、と。或は作家の文体の雰囲気を残すために。 

だから「直訳」し過ぎれば愚直なコピーになりえるし「意訳」に固執 
すると原作者の声色が変わる。愚直なコピーがどれだけ滑稽かは 
昔の「ものまね王座決定戦」みたいなものを想像させる。 


ともかくそういう意味では何と評価していいのかわからない英訳を読む。 
当然ながら日本語で読むほどのスピードでは進まない。これで当分は 
もつはずだ。最初に買った辞書はそういうときは使わない。 
わからない単語があっても文章の流れの方を大事にしないと情景が想像 
しにくいから。でも既に母国語で一度読んでるので読み易い。 




滞在の最終日にgreenwich villageの14th st駅付近にある古いジャズ 
クラブに行く。現地の情報誌を見ていてたまたまこの日からビルフリの 
トリオが6日間出ずっぱりな事を発見。よく見るとそこから1日あけて 
さらに6日間ほど彼のカルテットが出ることにも気づいた。 
きっちり2週間仕事をしてる訳ですね。ああいった種類の音楽でこういう 
スケジュールというのは僕にはただただ驚愕するしかない。同じ店でね。 


この店はビル自身も学生の頃から客として足を運んでいた場所だ。 
コルトレーンやロリンズがいつもここで演奏していたとは客席に座って 
ちびちびとsamuel adamsを飲みながら周りを見渡していてもにわかに 
信じ難い。sam adamsは学生時代に愛飲していた地元のビールだけれど 
割と市民権を得ていてNYやFLでも普通に飲める。 


注文して出て来たそれはあまり冷えてなかった。もっと冷たかったら 
良かったのにな。冷たくないビールなんて酸味しかないコーヒーみたいな 
ものだ。何か大事な要素が欠けてる。 


本番前、ステージにはアンプ3台とドラムセット。 
それから中央の足元には比較的シンプルなセッティングでビルの 
エフェクターが並んでる。最近よく使ってる(らしい)"Freeze"という 
白いやつは踏むときにカチっと音がしないのかな。 
僕の位置からでは聴こえなかったけどもししないようなら僕も使って 
みたいな。そういえばPog2といい、最近エレハモ指向なのかしら? 
今回は置いてなかったけどZvexのエフェクターも増えた。自分には高額だ。。 


この夜はギターとバイオリンとドラムの3人編成。 
僕は彼のbassless編成のバンドはどれも好きだったから今回のもとても 
楽しみにしていた。 


ライブのレポートは特にしない。 
いつもの彼らしいinteractiveな絡みを堪能する。 
ベースがいなくて音数も多すぎない彼らはスカスカであるはずなのに 
高密度だ。彼は珍しく(?)サンバーストのストラトを弾いていた。 
メイプルネックだ。音が異常に太い。 

ストラトには聴こえないくらい太い。シングルコイルだったのに。 
ストラトの良さが出てないと言ってしまえばそうも受け取れる。 
それくらい中域が厚くて あの編成でジャズよりなサウンドを出すにはまあ 
うってつけな感じだ。というかあの人はSGをリアピックアップのみで 
弾いていた頃からこういう音だった。tcのコンプとv.ペダルの時代に特に 
独特な印象を与えていたし、klein electricが更にそれを助長していて 
今でも彼と言えばその音像をイメージしてしまうのだけど。 


いずれにしても彼にしか出せない音だし さまざまな使用ギターの違いは 
彼の文体を決定づけるほど彼に影響を与えない。いや、彼は影響を 
受けているだろう。聴いてる側がその違いから本質的なブレを見出さない 
というだけだ。最近の動向からてっきりテレを使うと思っていた僕は 
良い意味で期待を裏切られた。テレの持つ透明感はそこにはないぶんだけ 
彼自身のタッチから産まれるある種の透明感が中域過多のストラトを 
通じて実に骨太に感じられた。 


おっとこれではまるでレビューだ。やめよう。 



本当は終了後に彼の時間が空けば少し話しをしてみたかった。 
持って来た自分のCDを手渡して(そんなものもらっても困るだろうけど) 
少ない会話を交わしてみるつもりだった。 
僕自身の為に彼にインタビューしたいこともあった。 



でもその日は1stセットだけ堪能して戻ってきてしまった。 
前回の渋谷に続き消極的な僕。 




店を出ると雨はやんでいて空が不思議ないろに染まっていた。 
近くの角から地下鉄に乗るべく潜る。 



その日は朝から霧のような雨でゆっくり公園を歩いているだけで 
濡れた。ダコタアパートまで歩いてしばしジョンのことを考えたり。 



本当はビレッジでのライブで感じたことを書き留めておこうと思って 
キーを打ち始めたのだけど書いているうちに言葉にすることが億劫に 
なってしまった。でもそこで何か大事なものを感じ取った気がする。 
それは時間性と関係があるのかもしれない。 


長い時間の中で人が知らず知らずのうちに歪曲されてくるようなこと。 
それは良くも悪くもなのでそれ自体がどうのというのではなくて。 


そういった時間の持つある種の要素、人に与える影響についてと 
同時にビルフリゼルという人があの晩も変わらず示し続けていた姿勢との 
因果関係について考えた。 


うまく言えないけど勇気づけられたのだと思う。 
思えば彼には決定的に勇気づけられた場面が過去にも何度かあった。 
それは音楽がどうのというのとは少し違うのかもしれないけれど。 


彼にはそういった作用があるんだ。少なくとも僕にとっては。 
僕はそこまで彼の音楽の熱狂的ファンではないかもしれない。 
でも彼が与えてくれるものによって随分と救われてきたように思う。 
自分自身との折り合いをつけていく中で。社会との折り合いもだ。 


そのことが感じられたから特に話ししないで帰ってきてしまっても 
良いように思えたのかもしれない。そのときはわからなかったけど。 
僕にはそれで十分だったし、実際に彼と話す共通のトピックも最初から 
存在しないし(なにしろ向こうは僕の存在すら知らない)。 



今にして思えば彼の話す言葉に耳を傾けるような行為だったなと思える。 
ライブでその瞬間の音/全体を感じるというのはね。 
それで与えてもらえるだけのものは十分に受け取った。自分にとっては。 
久しぶりにライブをライブとして受け止めることのできた貴重な時間 
だったな。 





帰りの飛行機は座席がガラガラに空いていて、僕は3席まるまる使って 
のんびりくつろいできた。やはり英文で本を読むのは母国語よりも沢山 
集中力を要するのですぐに疲れて、帰りの便では珍しく映画を観た。 


日本にいたらまず観ることはないはずだった映画だ。 
というのも奇しくも今読んでるのが正に同じ原作者だったからだけど 
僕の本当の興味は映画そのものにではなく音楽を担当したジョニー 
グリーンウッドのサントラにあった。 


僕が原作を読んだのは今から約20年前でそれは日本語で読んだ。 
その後英語でもう一回読んだかな。 


英訳の本はともかく、映画の方は実にひどいシロモノだった。 
「これはないよな」というのが見終わってからの僕の感想。 
ビートルズの原曲の使用が許可されて、ジョニーが音楽を担当して 
それで肝心な内容がこれではあまりにもひどい。 


いくら"NorwegianWood"というタイトルが"knowing she would"という 
ジョンの言葉遊びから発展したというのが本当だったとしても 
この映画を観てエンドロールと同時に流れる原曲を聴いたら本当に 
"knowing she would"としか思えないくらいだ。 


ジョンが観たら怒るんじゃないかな。 
原作者の逆宣伝効果じゃないかな。 
まあ僕が憤慨することじゃないのかもしれない。 



しかし それでいて台詞はほとんど原作のまま。 
あの口調で実際に喋るととても奇妙だ。 
しかも頑ななほど原作どおりの台詞を使い回しているのに 
肝心なところで監督なのか脚本家なのか知らないけれど微妙に台詞を 
作り替えてある。だからその部分だけセリフが浮いてしまう。 
場面転換の為だけにセリフを作り替えてある。緻密な構成も必要性も 
全く感じられない。 
実に気持ち悪いなあと思いながらもジョニーの音が聴こえてくるとつい 
聴き入ってしまう。結局そんなふうに最後まで観たわけだ。 

それで最後にあの有名なアコギのイントロからシタールの音が 
入ってきて心の底からガッカリしてジョンがまだ歌い続けていたにも 
関わらず僕はヘッドフォンを置いた。 



まあ映画の出来はともかくとしてあの仕事に関わったジョニー 
グリーンウッドは実際のところ完成された作品の全体を通して観てみて 
どんなふうに思ったんだろう? 




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余談だけれど、国外滞在中もずっと奇妙な地震酔いを感じていた。 
特に座っているときにそう感じた。それはあの3.11の日に僕がたまたま 
座っていたからだろうか? 


日本を発つ日にも大きな揺れがあって僕の乗った飛行機が離陸したすぐ 
後に空港は一時的に閉鎖されたらしいと後から知った。 
地震のことや原発のこと。不幸にも命を落としてしまった人々や不幸にも 
(或は幸運にも)生き延びてしまった現地の人々。 
被災者と繋がってる人々のこと。被災地と遠く離れている人々。 
まだ言葉にできなくていつも漠然と思い続けてること。 


原発については僕は卑怯(というのか)にも逃げることをずっと考え 
続けてた。自分さえ良ければそれでいいというつもりはなかったけれど 
まず自分の安全を考えた。自分を救えない人は他人なんて救えないという 
考えを自分に押し付けて正当化しようとしていた。 


でも不思議なもので、しばらく外に出ていると逆に日本のことが気がかり 
で余計に落ち着かない気分になってくる。それは誰かが書いていたように 
自分の安全が確保されてから初めて自身を省みるようなことなのかな。 
それと同じことだと言われてしまえば否定はできないな。 


でもとにかく思ったことは自分一人が助かってもそれは幸福ではない 
のではないかというごく単純なことだったり。 
あれだけ危惧していたにも関わらず、外に出ている間じゅう日本にいる 
僕のよく知る人々の事を気に病んでた。今こうしてる間にも大きな地震が 
再びどこかを襲うんじゃないかとビクビクしていた。でもそれなのに 
早く戻りたくてしかたない自分がいて困惑した。それは自分が安定した 
立ち位置にいるからやっと他人の心配をしはじめた人みたいにも思えたし 
それから自分が恐れていることは自分の知る人々を失うことなのかも 
しれないとも思えたし。結局僕はいつも自分なのかと幻滅もした。 



でもとにかく日常に戻ってきて少しだけ落ち着いた。 
自分にとっての日常ってどういうことなのかをもう少し深く理解していて 
もいいんじゃないかと思った。それが何かの解決や人の為に直接なること 
ではないのだけれど。全体の中で生かされているような感覚のこと。 



飛行機の中から見た空はまるで地球のようなカタチをしていて不思議な 
感覚を味わった。見たものが見たままの真実じゃないんだと何故か思った。 
見たものは風景であれ人であれ自分の心の中を反射して映してる 
だけなんだと改めて思わさせられたり。内と外は繋がってるんだと。 



最後まで支離滅裂なままこの話はここでおしまい。