2010年ももうすぐ終わろうとしてますね。
時間の経つのがとても早く感じられる。
こんなに早くて良いのだろか。周回遅れの意識がびっくりしてる。
ちゃんとついていかないとなあ。。
いつも基本的に誰かの横で弾いてる僕なのだけど
たまに一人で弾いたりまったりとした空間を作ってます。
つい先日も北千住の倍音バー(?)であるCosmicSoulというお店で
アンビエントな感じでのんびり過ごしてきました。
雰囲気が良く、とても落ち着くスペースだった。
僕は自分のソロはできるだけ変化に乏しく、盛り上がりに欠け、
灯りのほとんどない中で極力少ない動きで・・・というのが
理想なのだけど。 今回はどうだったのかなあ。
でも小さなスペースだから上記の部分は満たせても肝心の音質が
物足りなかったりね。ギターの生音が聴こえてしまうのも興ざめだし。
聴覚的な効果は随分と物足りない感じになった。大事な要素だ。
ライブとはいえ、インスタレーション的な効果も自分には欲しいと思った。
だから視覚にも何かこだわって表現しないと、お客さんは普通の
ライブのように演奏してる僕自身を観てしまうんだろうね。
「何か」が起こるのを待たせてしまう。期待させてしまう。
特に何も起こらないのにね。
それがライブをやってて「申し訳ないな」と思うこと。
いや「申し訳ない」と書くと失礼か。
とにかく期待は「良い方向」に裏切らないといけないものだね。
「僕はそこにいるけどでもそこにはいない」というのが理想なのです。
だから何かをオミットするなら僕自身なんだろうなと思う。
どうやって消そうかなと考える。
そこにいないのが一番だけど、それでは本当にインスタレーションに
なってしまうし。もちろんそれも興味あるけれど、ライブというのはまた
別物だから。
白州正子さんが生前「お能」について語っていたのと同じように
「余韻を大切にする類いのものは拍手を必要としない」のは確かだ。
拍手はせっかく時間をかけて作り上げたアトモスフェアーを壊してしまうから
無粋とされたのだね。白州さんのその発言は実によく理解できる。
日本人は特に形式的に拍手をする傾向があるから、曲が終わって拍手がないと
なんだかおかしな空気になっちゃうんだね。
まあライブと言えば何でも並列的に捉えて形式的に同じようなリアクション
をとってしまうことに不満を抱いてるわけじゃないです。むしろ僕がしてる
行為の方が紛らわしいのだし。
なのでどうしたらすっきりと心地よい空間を作れるのかなと思い悩んでみる。
随分と前にBrian Enoの「空港のための音楽」を聴いてちっとも好きに
なれなかった。音が生々しいわけでもないし過剰な毒素も含んでいなかった。
それからしばらく聴いていなかったのだけど、数年経ってからふとしたはずみで
聴いてみて、それからタイトルの意味について想像をした。
つまりその音源が空港でどのように流れているのかを想像したらあっさりと
合点がいったわけです。あのあまりにもあっさりとした無機質な音源は僕の想像上の
空港の適度にごったがえす静かな人ごみの中で実に見事に機能していた。
そこには十分な毒素も含み、世界をシュールに包み込みながらも優しさというか
悲しさというかそんなような淡いサウダージを感じさせるだけのものがあった。
何かのライナーノートでその音源が実際にNYの空港で流されたときは
「気分が滅入る」などの理由によってお客さんからいくつものクレームが
寄せられたことを読んで僕は心の底から感動した。やっぱり!と思った。
それは非日常的或は日常的に空港を利用する一般人から空港職員から
そこにある風景から飛行機やら電光掲示板やら大きなガラス窓やらを
まるごと内包した巨大なインスタレーションなんだね。
特に何かをプログラミングしなくても、そこにある人々の動きの変化に伴い、
その日の天気や光の射し具合に反応し、自然に変化する箱庭なんだ。
そして人々は自分達がインスタレーションの一部になってることなど全く
知らされていない。
僕がその光景を思い描いて想像したものと、実際の利用客のいくつかの
リアクションは実に一致していた。それに気づいた時点で楽曲を聴く僕自身の
方が変化したとも言える。作り手であるイーノ氏はそもそもそこまで理解
して書いてる(描いてる?)のだろうなと思うと鳥肌がたった。
いや、もちろん一人一人の反応なんて想像してないと思う。
でも大筋のところで彼のイマジネーションはある意味シンプルであるが故に
より大規模な総体を捉えてるんだと思う。空間を限定することによって
それは実現されてるんだなということにいろいろと考えさせられることになる。
そういうことに興味を持ちながらライブについて考えるので当然ややこしい
ことになる。ライブは「生」だからこそライブであるし、目的が本来違うんだ。
録音作業が日々の自宅での栄養バランスを考えた粗食的(粗食でなくても)な
ものであるとすれば、ライブはしっかりと味のついた外食みたいなものだと思う。
1回きりの中で客の舌を満足させ、しかもまた足を運んでもらうためにアディクト
症状をひき起すくらいのものでないといけないものね。
逆に録音はこってり作り過ぎると取っ付きは良いけど長いこと聴く種類の
ものではなくなる。賞味期限の長さは味の濃い薄いだけではないけれど
少なくともライブのようなその場の瞬間的な要素で成り立つようなものではない。
いや、全ての記録物は瞬間的な要素の総体かもしれないけどそれは必ずしも
ライブでの感じられ方と同質とは限らない、ということだね。
だから自分のやってることが大いなる矛盾を孕んでいることは自明なんだ。
それをわかっていながらどう続けていくのかなというようなことが恐らく自分に
問われてることだろうと思う。問うてるのはもちろん自分自身だけど。
そんなことをちまちまと思い悩みながらもさらにちまちまと映像を編集して
みたりして。ただの「暇なヒト」みたいだ。我ながら。ははは。
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